・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
・自由意思と予定説
私たちの行動は、随伴的な現象にすぎない。シャドワース・ホジソンが言うように、意識が持つ感情は、色そのものによってではなく、色のついた無数の石によってまとまりを保っている、モザイクの表面の色にすぎない。あるいは、トマス・ヘンリー・ハクスリーがある有名な論文で主張したように、「我々は意識を持つ自動人形である」。汽笛が列車の機械装置や行く先を変えられないのと同じように、意識も体の動きの仕組みや行動を変えられない。どうわめいたところで、列車の行き先はとうの昔に線路によって決められているのだ。意識とは、ハープから流れてくる弦をつまびくことのできぬメロディ、川面から勢いよく飛び散るものの、流れを変えられぬ泡、歩行者の歩みに忠実についてはいくけれども、道筋に何ら影響は与えられぬ影だ。
【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2005年/原書、1976年)】
「まとまりを保っている」とはゲシュタルト心理学か。一般的にはゲシュタルト崩壊の方がよく知られている。
西洋で無意識を発見したのはフロイト(1856-1939年)だ。唯識に後(おく)れること1500年である。西洋では一切を神の被造物と考える前提があるため聖書に書かれていないことが判るたびに一々腰を抜かす。
で、意識である。なぜ西洋人がかくも大仰に意識を取り上げるのかというと、それは自由意思の問題に行き当たるためだ。「科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています」(池谷裕二)。一神教としては胸を撫で下ろすような指摘である。キリスト教徒にとっては「予定説」と絡んでくるのだ。
西洋が侮れないのは教条(ドグマ)という圧力をバネに論理を飛躍させることができる思考能力にある。日本人はそこまで考え抜くことができない。なぜなら我々が勝負するのは俳句や短歌の世界であるからだ(笑)。理窟よりも風流を好むのが日本の流儀であり、弱点でもある。
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