2021-02-25

「教学部レポート」を読む

宮田論文に関する覚え書き
「先輩からの手紙」に思うこと

 ・遠藤文書
 ・「遠藤文書」に関するメモ
 ・遠藤文書にみる長谷川重夫(次期理事長候補)という人物について
 ・「教学部レポート」を読む
 ・「遠藤文書」を読む その一
 ・「遠藤文書」を読む その二
 ・大御本尊決別「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」
 ・長谷川重夫……池田の筆頭茶坊主、ゴマすり男の見本

友岡雅弥氏の死を悼む

 少しばかり検索してみたのだが、どうも「遠藤文書」から読み直す必要があることに気づいた。尚、遠藤文書や友岡雅弥の査問について本部職員や元男子部首脳に尋ねれば大方の事情はつかめると思うが敢えて確認しない。いずれにせよこれらの「事件」を静観あるいは見て見ぬ振りをする幹部しかいないことは明らかだろう。友岡について書いた後は波田地 ( はたち )動画を紹介する。

 全体的な情報がきちんと編まれていないためわかりにくいのだが教学部レポート「総本部の御本尊と日蓮世界宗創価学会会憲の問題点」と、遠藤が査問を受けた後に提出した「質問書」があるようだ。

「ドン不在」創価学会で某重大論争:FACTA ONLINE

 やっと見つけた。

教学部レポート「総本部の御本尊と日蓮世界宗創価学会会憲の問題点」

 レポートで縷々(るる)述べられているのは全くの正論で反論できる者はあるまい。「学会常住御本尊」の意義付けに関する小委員会が発足したが、政府の諮問会議みたいな扱いで、学会首脳部は「本部マンダラを大御本尊と位置づける」ための理窟(りくつ)が欲しかったようだ。

 本尊に関するテクニカルな問題だが、創価学会は既に教義変更を重ねてきており、全体的に「教義は絶対である」との認識すら薄い。むしろ法主を斥け、五座三座の勤行すら蔑ろにした学会の行状を振り返れば、池田絶対主義に大きく舵を切ったことが窺える。教義ではなくカリスマ依存の体質となったところに宗教性を見出すことは難しい。

秋谷議長「『戒壇の大御本尊は信受の対象ではない』と、とにかく、まず会長が大々的に発表してしまえばいいんだ。そのあとで上手く説明を作るのが教学部の役目じゃないか」

 末端にとってはなぜ今頃かような教義変更を目論むのか理解に苦しむことだろう。簡単な話だ。池田亡き後、激減する財務・聖教新聞部数を見込んで、かつての登山会のような学会本部参詣を企てているのだ。御開扉料を徴収しなくても、何らかの広布基金システムを考えているはずだ。あるいは記念品販売など。

 結局カネの話だ。金儲けのために教義を変えるのだ。連中は池田の死すら大いに利用することだろう。池田を偲(しの)ぶでかい記念講堂を建設するという名目で大々的な財務を行うに違いない。あるいは信濃町界隈に池田の墓を作り、記念室を作り、全国巡回の展示会を行い、これでもかと言わんばかりに会員の財布を叩くことだろう。

2021-02-22

友岡雅弥氏の死を悼む

宮田論文に関する覚え書き
「先輩からの手紙」に思うこと
「教学部レポート」を読む
「遠藤文書」を読む その一

 ・友岡雅弥氏の死を悼む
 ・友岡雅弥の証言
 ・友岡雅弥の査問

友岡雅弥

 友岡さんが亡くなったことを私は知らなかった。偶然「宿坊の掲示板ほぼbot」のツイートで知った次第である。直ぐ検索したところ、学会本部で七度に渡る査問を受け、それが原因でPTSDを発症し、長らく支援していた東北の地で斃(たお)れたという。役職も解任された上、退職金の返還も命じられたとのことで、創価学会の共産党的体質が急速に強化されていることが窺える。

著者友岡雅弥 逝去についてお知らせいたします | すたぽ-Starting Point-
キャンペーン · れいわ新選組: 友岡雅弥さんを死に追いやった人達への適正な刑事訴追を求めます。 · Change.org

 下のリンク先は要注意である。「宛先:れいわ新選組」となっており、何らかの政治的意図が見え見えだ。入院中の写真があることから友岡さんと親しい人物であるような印象を受けるが、この人物が撮影したかどうかを確認しようがない。果たして生前の本人が了承したのだろうか?

 一人は自ら実名を出していますが、友岡雅弥という、金銭不祥事を起こして2017年に学会本部を辞めた人物です。

社団法人の母体は波田地グループ肝いりの会員制有料ブログ - 創価学会員として生きていく

 事情通が書いているようだが体制側の安全な位置でぬくぬくとする気楽な調子が行間から滲(にじ)んでいる。もしも組織からの指示でやっているなら絶対にやめた方がいい。個人を特定する手段は結構あるし、創価学会は暴力に長(た)けた人間が多いので事件に発展する可能性がある。「殺される覚悟」があるのなら見上げたものだが。

 宿坊板のまとめも読んだ。日を改めて所感を記す。

 客観性を重んじるため普段は敬称を省(はぶ)いているが、一度面識があることと、著作から受けた恩恵が大きいため例外とした。

 今日は古谷さんの命日。

2021-02-19

『命がけの証言』


2021-02-18

「ありのままでいい」という生き方

『愛に癒されて人は生きる 精神科医が見つめた人間の心の復元力』村田忠良

 ・「ありのままでいい」という生き方

・『治りませんように べてるの家のいま』斉藤道雄

 しかし精神障害者はいまだに共同住居や作業所で「主役」になっていないことが多いのではないだろうか。自立や社会復帰は、ほとんどがいわゆる健常者が唱え、計画し、勧めてきたことではなかったろうか。その健常者は親であり医者でありソーシャルワーカーであり、役人や地域の人びとであったかもしれない。けれど彼らの唱える社会復帰や自立は、つねに健常者を基準にしている。少しでも健常者に近づくこと、病気を治すこと、幻覚や妄想を取り去ること、立派な人間になって一人前に働くこと、そのようなことがイメージされている。そうしたことのすべては、「病気であってはいけない」「いまのままのお前ではいけない」というメッセージをあくことなく発信しつづけているのではないか。ところが、治せ、なくせといわれているその病気はほかならぬ精神病なのだ。風邪や胃炎とちがってかんたんに治せるような病気ではない。多くの一が一生をこの病気とともに過ごさなければならないのだとすれば、病気を治せ、健常者になれといわれつづけることは、すなわちその人が一生「いまのあなたであってはいけない」といわれつづけることになる。そうではなく、病気があろうがなかろうが「そのままでいい」という生き方があるのではないか。
 べてるの人びとがはじめからそのようなことを考えていたわけではないだろうが、その生き方、暮らし方からは「そのままでいい」というメッセージがつねに発信されている。それは理屈で考えた結果ではなく、みんながともに暮らし、悩み、苦労しながら試行錯誤を重ねるなかで積みあげた結果だった。

【『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄(みすず書房、2002年)】

 人から薦められた本は取り敢えず読むようにしているが大抵がハズレである。「俺の時間を返せ」と言いたくなることが多い。ま、読んでる量が多いとどうしても評価が辛くなる。べてる本は婦人部の方から薦められた。「べてるの家」という名前は知っていた。「どうせキリスト教だろ?」くらいにしか思っていなかった。直ちに食指が動くことはなかった。何かのついでに思い出して取り寄せたことを記憶している。

 べてるの家は北海道浦河町にある精神障碍者の拠点である。もともとはグループホームだったが現在は社会福祉法人となり、様々な事業も行っている。斉藤道雄はテレビ記者。端正な文章でべてるの家を描写し、その知名度を全国区にまで高めた。

「病気であってはいけない」「いまのままのお前ではいけない」――これはまさに創価学会の組織でまかり通っている論理である。戦後になり雨後の筍(たけのこ)の如く新宗教が乱立したが、高度経済成長期に入ると創価学会の一人勝ちが鮮明になった。勝因はどこにあったか? 「戸田第二代会長が組織を重視したゆえ」と池田は指摘しているが正確ではない。学会組織は完全に共産党のパクリでオルグを折伏に替えただけのものだ。創価学会が発展したのは組織において人材育成を徹底したためである。特に青年の育成に力を注いだところに戸田の慧眼があった。

 この流れが澱(よど)んだ要因としては文化祭と夏期講習会がなくなったことが大きいと私は考える。また組織全体として見れば指導部の解体が致命的な失敗であった。

指導部

 でもまあ、このあたりは私の世代(創価学会流に言えば第二次宗門問題世代)ならではの見方かもしれない。

 学会組織は布教と選挙を目的としている。そこに限界があり弱さがある。左翼同様、活動家は重用(ちょうよう)されるが役立たずは切り捨てられる。例えば身体障碍者や精神障碍者は会員数から除外されることも珍しくない。

 べてるの家は組織ではなくコミュニティである。コミュニティ性という点でべてるの家は創価学会よりも上である。世界中から見学者が訪れているのも頷ける。

親中派の創価学会はウイグル人虐殺に加担している自覚を持て

2021-02-11

BBCが伝えたウイグル人衝撃の証言‼️【及川幸久−BREAKING−】

 創価学会の幹部でこういう情報発信をしている人はいない。You Tubeは疎(おろ)かtwitterをやっている副会長すらいない。いかに不自由な組織かが理解できよう。


 尚、以下の書籍を創価学会婦人部に奨(すす)める。下の2冊は電子版のみ。



2021-02-10

生命エネルギー仮説

 ・生命エネルギー仮説

『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄

 精神科の臨床にたずさわって40年余、さまざまな人生に関わっているうちに、私は人のいのちを次のように考えるようになった。
 人のいのちは、身体的生命、精神的生命、社会的生命、宗教的生命の四要素の統合体としてある。前三者は動物一般に共通してある要素だが、宗教的生命は人間独自のものである。
 人の生命現象は生命エネルギーによって営まれるものであり、エネルギー恒存(こうぞん)の法則に従う。
 それは臨死状態にいる人の傍にいて、つまり慢性自殺といわれるアルコール依存症患者の身体死・精神死に瀕(ひん)する状態に関わって、また家族からも所属する集団からも存在を疎(うと)んぜられている社会死の場面を見つめて、さらにはそれらの絶望的な状況から復活再生を遂げる回心の劇的な瞬間に立ち会って得られた、実体験の結果としての生命論なのである。
 私はこれを、私の「生命エネルギー仮説」と名づけるのであるが、将来は仮説ではなく一つの理論として認められることを期待している。
 W・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の副題が「人間性の研究」であることに私は深く共感するのであるが、私のいう宗教性は人間性を構成する基本的要素としてあるものであり、具体的な宗教生活、宗教活動、宗教行事への参加の有無などは問題にならない。無神論者の心性にもこの宗教性が内在するというこであり、人間であることの証(あか)しとしてこの宗教性があるということである。
 ズンニィニィ教授(ミラノ聖心大)がかつて述べられたように、人はホモ・レリギオースス(宗教性においてあるヒト)なのである、と思う。

【『愛に癒されて人は生きる 精神科医が見つめた人間の心の復元力』村田忠良〈むらた・ただよし〉(海竜社、2000年)】

『べてるの家の本 和解の時代(とき)』(べてるの家の本制作委員会編)の帯文(おびぶん)で著者の名前を知った。文章に独特の冴えがある。タイトルからもわかるように村田はクリスチャン(カトリック)である。私は『折伏教典』を読んで以来キリスト教が大嫌いである。40歳を過ぎた頃から近代という概念に興味が湧き、世界基準の常識としてキリスト教を学ぶ必要に迫られた。

 森島三部作(『科学と宗教との闘争』『思想の自由の歴史』『魔女狩り』)を皮切りに、ポール・ヴェーヌ著『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』を経て、岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉の『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』『科学vs.キリスト教 世界史の転換』を辿り、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(ラス・カサス)、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』(猿谷要〈さるや・かなめ〉)に至った。

 とりわけ私のキリスト教理解を深めたのはルドルフ・カール・ブルトマン著『イエス』でドグマチズム(教条主義)の合理性が腑に落ちた。当然ではあるがこれらの本を自分なりに読めるようになるまで欠くことのできない紆余曲折があった。こうして何となくではあるが「近代」の放つ体臭に気づくと、『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(小室直樹)の達観がやっと理解できるのである。

 いくら蛇蝎(だかつ)のようにキリスト教を嫌ったところで、近代の扉を開いたのが西欧である事実に変わりはない。ミラクル・ピースと言われる日本の江戸時代は寺子屋を通して国民の知的レベルを向上させた(※江戸の識字率は世界一だった)がリベラルアーツ(知の総合体系)を生むには至らなかった。有色人種国家で唯一近代化に成功した日本ではあるが、新たな世界基準を打ち出せない原因もここにある。

 私はまた精神科医も嫌いだ。否、精神医学を科学と認めることに限りない困難を感じる。これまたいくらでも書籍を挙げることができるが別の機会に譲る。日本の精神分析は精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-5、2013年)に基づいて行われているが、DSM-IV(1994年)の編集委員長を務めたアレン・フランセスが製薬会社の利益誘導を図る基準となっていると猛烈な批判を加えている(『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』)。

 それでも尚、本書に脈打つ誠実な人間性に私の心は魅了される。

2021-02-02

衆愚政治の極み

政治家には政策を求めるべき

 ・衆愚政治の極み



 永田町関係者は「支持母体の創価学会婦人部の怒りが収まらなかったことに尽きる。特に31日投開票された地方選で、推薦した千代田区長選の候補は落選し、北九州市議選は議席確保したものの票を落とした。埼玉の戸田市議選に至っては、候補が落選してしまった」と指摘する。

【02/01 17:13 東スポWeb】

 こういう時に出てくる「婦人部」とは一体誰のことなのか? 以前から疑問だった。婦人部は四者の中で一番上の言いなりになりやすい。大体政治のことは殆ど理解していないし、まともな御書講義ができる幹部も少ない。教学部に婦人部幹部がいないことからも明らかだ。とすると、やはり婦人部上層部なのだろう。でもまあ本当のところは数が一番多いから婦人部といえば一定の説得力があるというだけのことだろう。

 遠山氏の不祥事では、清廉なイメージを定着させてきた公明に批判の矛先が向かった。深夜会合が発覚した1月26日以降、党本部には「議員を辞めるべきだ」との声が殺到。支持母体の創価学会への抗議の電話も鳴りやまなかった。
 多くの会員が反発した集団的自衛権の限定行使を可能にする安全保障関連法(平成27年成立)を引き合いに、学会幹部は「クレームは安保法制の比ではない」と頭を抱えた。

【産経ニュース 2021.2.1 20:33】

 創価学会員の政治的関心は国家の安全保障よりも、銀座のクラブやキャバクラにあることが窺える。大衆はとことん愚かである。事の軽重を常に誤る。清廉潔白で無能な政治家が一番困るのだ。今後、公明党の代議士はますます小粒となり、天下国家を論じるよりも学会本部の顔色を窺うことが彼らの政治活動となることだろう。

 衆議院への進出は戸田城聖の構想であった(※水滸会で何度か言及している)が、100年200年単位で見ればリスクの方が大きいと言わざるを得ない。立正安国の精神というよりは戸田の野心であったように思う。

2021-02-01

『上座部仏教における聖典論の研究』に関する声明

『上座部仏教における聖典論の研究』に関する声明 - 大蔵出版

 批判しているのは馬場紀寿か?

PDF:小部の成立を再考する

政治家には政策を求めるべき

 ・政治家には政策を求めるべき

衆愚政治の極み

 公明党の遠山清彦議員が辞職表明。