2021-10-30

チュチェ思想

 チュチェ思想は、私の理解する限りでは次の3点に要約されます。

1.革命と建設の主体は、民衆である
2.民衆は、指導者のもとに団結しなければ、帝国主義に勝てない
3.朝鮮は、指導者と民衆が結びついた有機的な生命体である

【これは実は国家有機体説なのです。朝鮮労働党の当初の指導原理は、社会契約説から発展したマルクス・レーニン主義というより、むしろ天皇機関説に近かった】のです。

【『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠〈もぎ・まこと〉(祥伝社、2021年)】

 国家有機体説は保守主義である。社会契約説とは反対に位置する。金日成〈キム・イルソン〉がチュチェ思想に言及したのは1930年で、1958年前後から黄長燁〈ファン・ジャンヨプ〉によって哲学的に体系づけられた。黄は1997年、韓国に亡命。チュチェ思想と創価師弟主義の酷似に驚く。創価学会における黄長燁は原島嵩か。昭和40年前後であったと記憶するが、「我々の同志は南鮮、北鮮にもおります」と池田はスピーチしたことがある。

遠山事件のその後


 25年振りに立候補した自民党候補の古川直季元市議は竹田恒泰の友人である。先日の虎ノ門ニュースで知った。

 上記ツイートを鵜呑みにすれば、これは谷川に対する脅しと思うがどうか。「いつでも同じ目に遭わせるぞ」とのメッセージが込められているように感ずる。

2021-10-28

日中友好金の橋の目的

 結局のところ、池田は言論問題で起こった政教一致への批判をかわすために中国を利用し、周恩来は文化大革命に対する国際的なマイナスイメージを払拭するために創価学会を利用したわけだ。双方が承知済みであったとすれば相当な高等戦術だ。

 兵とは詭道(きどう)なり。故に、能(のう)なるもこれに不能を示し、用なるもこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓(みだ)し、卑にしてこれを驕(おご)らせ、佚(いつ)にしてこれを労し、親(しん)にしてこれを離す。其の無備を攻め、其の不意に出(い)ず。此れ兵家の勢(せい)、先きには伝うべからざるなり。

【『新訂 孫子』金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、2000年)】






2021-10-19

堀上人が語った戒壇本尊の真相

 大石寺曼荼羅偽作説を堀日亨が認めたという話。それにも増して驚愕したのは、池田が毎年のように年末に江東区を訪れていた目的が河辺慈篤(妙因寺)に会うためだったとの指摘である(18分55秒)。妙因寺に行っていたのは聞いていたが、よもやそれが目的だとは思わなかった(涙)。



2021-10-18

伊藤園からキックバックを受けていた浅見、細谷、谷川、佐藤

 波田地氏が話した内容は方面長クラスでも知らないことである。私は送別会に参加した某副会長から話を聞いたことがある。「東北左遷の真相は不明だ」と語っていた。当時の連絡局首脳も「わからない」と言っていた。


 ところが驚くべき情報が宿坊掲示板に掲載された。

新・天鼓 常態化していた創価幹部のリベート収受 投稿者:お~いドクま 投稿日:2021年10月16日(土)19時25分59秒

 マジっすか? 細谷副会長(東京長兼任)は「呑み屋のママと出来ていた」という話しか知らない。私が青年部の頃、既に処分を受けていたが、金城会がずっとマークしていた。

 この手のカネを銀行振込にするとは脇が甘い。警察や税務署が動けば一発でバレてしまう。汚れたカネは現金で渡すのがセオリーだ。

 それにしても、なぜ学会はそれほど野中を恐れたのか。
「まあ、理由はいろいろありますが……」
 と言いよどんだ後で、岡本が例を挙げたのは学会発行の『聖教グラフ』に関することだった。聖教グラフには、池田と外国要人などとの会見場面を撮った写真がたびたび掲載された。
「写真のバックには学会施設にあるルノワールとかマチスとかいった有名画家の高価な絵が写っているんですが、野中さんがそれを創刊号から全部調べ上げて、学会が届け出ている資産リストと突き合わせた。その結果、届出のない絵がいろいろあることが分かったというのです。もちろん野中さんは直接そんなことを学会に言ってくるわけではない。何となく耳に入るので、秋谷会長は『野中は怖い、怖い』としきりに漏らすようになったんです」
 後に野中が自公連立政権作りを成し遂げた後、有力支持者の一人が「どうやって学会・公明党とのパイプをつくったんですか」と野中に聞いた。
 すると野中はこう答えたという。
「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」

【『野中広務 差別と権力』魚住昭〈うおずみ・あきら〉(講談社、2004年/講談社文庫、2006年)】

2021-10-16

中国共産党の人権侵害と戦う自民党議員を公明党は推薦せず

 大阪14区の学会員は賢明なる判断を。

2021-10-12

岸信介と北一輝

・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒

 ・岸信介と北一輝

・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

 興国同志会と縁を切った岸が、もうひとり別の思想家の門を叩いたのはほぼときを同じくする大正9年の春先だった。
「北氏は大学時代に私にもっとも深い印象を与えた一人であった」(『我が青春』)と自ら告白するように、岸はある時期、北一輝から圧倒的な感化を受けた経験を持つ。
 北一輝に会って烈々たる隻眼(せきがん)に睨まれた岸は、それまでに経験したことのない雷鳴のような衝撃を受けたと正直に語っている。
 北一輝に会いに行く前、同じく国家主義者の鹿子木員信〈かのこぎ・かずのぶ〉(大アジア主義の思想家で戦時中には言論報国会事務局長)を鎌倉の建長寺に訪ね、一緒に座禅を組んで教えを乞うたり、友人と大川周明(国粋主義者)宅を訪ねたりしている。
 その大川周明のアジア主義からもかなりの影響を受けたと述べているが、このとき大川から北一輝に会うよう勧められた可能性もある。

【『絢爛たる醜聞 岸信介伝』工藤美代子(幻冬舎文庫、2014年/幻冬舎、2012年『絢爛たる悪運 岸信介伝』改題)】

 工藤美代子は文章がいい。事実に即していながら物語の構成も絶妙で、どんな人物であっても彼女の手にかかれば一級のドラマと化すことだろう。それだけに「騙されてなるものか」と力みながら読む羽目になるわけだが、結局のところ「ああ、面白かった」で終わってしまうのが常だ。

 岸信介〈きし・のぶすけ〉は1896年(明治29年)生まれだから、戸田城聖よりも4歳年上である(戸田が早生まれのため学年は3年違い)。岸は戸田が出獄した直後の1945年(昭和20年)9月15日に逮捕され、1948年(昭和23年)12月24日までA級戦犯として巣鴨拘置所に勾留された。

 旧制一高~東京帝大では秀才で鳴らした。戸田は牧口と出会い、岸は北と遭遇した。若き日に人生を左右するほどの出会いを経験した人は幸せである。北一輝の国家社会主義思想は岸の精神に刻印され、後に官僚として統制経済を仕切ることとなる。

 一方、「美濃部(達吉)博士や吉野(作造)博士には到底同感出来なかった」と語る岸であったが、東大卒業後、配属された商工省文書課の上司は強面(こわもて)で知られた吉野信次(作造の実弟)だった。

 残念ながら本書に戸田の記述はない。特筆すべきは「踊る宗教」の北村サヨで、家族と別れを告げて巣鴨拘置所に向かう、まさにその時に現れ、「岸は3年ぐらいで帰ってくる。そして必ず10年以内に総理大臣になる!」と大声で叫んだ。この予言はそのまま実現するのである。岸は終生、サヨに頭が上がらなかったという。

2021-10-07

山口那津男殿御返事

 そういや山口が衆院選で東京10区から立候補した時、私は派遣隊の隊長を務めた。今となっては我が人生の大いなる禍根である。ま、落選したんだけどね。

2021-10-02

公明党の対中姿勢は、反人道主義である

 私自身は、周の肝煎りでつくられた外交官育成を目的とする外国語大学で日本語を学んだ。「日本事情」という講義で触れられた池田氏と周の会見については、学会の公式見解とは全く別の角度で教えられていた。

「中国での布教をもくろむのではなく、日中友好活動だけやってください」とした周の発言が、私たちの教科書には記載されていた。中国側と創価学会側は「日中友好」については合意に達していたものの、布教の自由を与えないと周から事前にクギを刺されていたのだ。創価学会が片思いを寄せる「日中友好」も、最初から信仰の自由のない政治的なゲームでしかなかった。

楊海英:中国をかばい続ける公明党の危険な片思い|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

 記事タイトルはご本人のツイートより。