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2021-03-11

大御本尊決別「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」

・宮田論文に関する覚え書き
・「先輩からの手紙」に思うこと

 ・遠藤文書
 ・「遠藤文書」に関するメモ
 ・遠藤文書にみる長谷川重夫(次期理事長候補)という人物について
 ・「教学部レポート」を読む
 ・「遠藤文書」を読む その一
 ・「遠藤文書」を読む その二
 ・大御本尊決別「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません」
 ・長谷川重夫……池田の筆頭茶坊主、ゴマすり男の見本

・友岡雅弥氏の死を悼む

大御本尊決別 2014.11.8(聖教新聞)

「弘安2年の御本尊は受持の対象にはいたしません。」

【原田会長による創価革命 | よくわかる創価学会】

 これは凄い。私は全く知らなかった。猊下を畜生呼ばわりした時とは次元が異なる。しかもそれを宣言しているのが選挙に負けてばかりで土下座させられた人物なのだ。法は真理である。数十年ごとにコロコロ変わるものを法とは呼ばない。それは政策だ。

 以前、ツイッターで無水鍋を勧めたことがある。用意周到に調べ上げ、自分で購入した直後のことだ。何人かのフォロワーが買ったことを知らせてくれた。その翌月になんと無水鍋の値段が1.5倍ほどに値上がりした。たぶん原材料費が高騰したのだろう。タイミングがよかった。私の来し方を振り返るとしばしばこういうことが起こる。創価学会から離れたタイミングも絶妙であったと今になって思う。

 もしもあなたが日蓮仏法を信じているのであれば日蓮に従うのが正しい。ただし日本仏教が祖師信仰に陥っている事実を自覚する必要がある。

――日本の仏教とテーラーワーダがもっとも違うのは、どこでしょうか。

スマナサーラ●違いはたくさんありますが、いちばんはやはり日本の仏教がいわゆる祖師信仰だという点でしょうね。祖師信仰では、その宗派を開いた祖師さんの言うことは何でも、自分ではちょっとどうかなと思っても、信仰しなさいと強要します。つまり、祖師の色に染まるんですね。

【『希望のしくみ』アルボムッレ・スマナサーラ、養老孟司〈ようろう・たけし〉(宝島社、2004年/宝島SUGOI文庫、2014年)】

2016-01-02

宗教とフィクション

 ・宗教とフィクション

・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ


 フィクション(虚構)には力がある。私の世代が小学生で野球を始めたのは『巨人の星』(TVアニメ版)の影響が大きい。日本でプロサッカーリーグが誕生したのは『キャプテン翼』の功績といってよい。

 もともと物語は老いから若きへと「語り」を通して伝承された。人々は物語によって人生の規範や社会のルールを学んだ。グーテンベルクの印刷革命がマスコミュニケーションを可能にし、メディア革命はラジオ~映画~テレビ~インターネットと変遷を遂げた。

 フィクションの目的は「感情の操作」にある。喜怒哀楽を揺さぶり、カタルシスを与えることで社会に対する不満を解消する作用がある。現在では「パンとサーカス」のサーカスに該当するものが殆どだ。

 後期仏教はヒンドゥー教の復興に対抗するべく「仏教の物語化」を図った。これが私の見解である。つまり日本仏教はフィクションの上に成り立っているのだ。

「池石戦争」によって創価学会における師弟関係も単なる作り話であることが判明した。さすがの私も驚愕した。

 大衆はいつの時代も物語を求めている。そして事実は歪められ、強者に都合のよい歴史が綴られる。例えば明治維新前後や大東亜戦争前後で世の中は一変した。いわゆる従軍慰安婦問題や南京大虐殺もフィクションである。本多勝一が『中国の旅』で紹介した「百人斬り競争」も新聞記者が捏造したフィクションであった。

 結局のところ外務省による放置・不作為が日本の国益を損ねるに至ったわけだが、こうした外務省の体質はGHQの占領下に形成されたものだ。外務省の官僚は殆ど公職追放されることなく、マッカーサーの手足となって働いた。その後、追放された党人派が自民党に復帰し、吉田茂率いる官僚派と熾烈な闘争を行う。

 話を元に戻そう。一神教はすべてフィクションである。


 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味がふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)】

 真の宗教は数学のように単純で、そして美しい。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章

2015-06-16

「正しい怒り」など仏教では成り立たない

 ・「正しい怒り」など仏教では成り立たない

・一切皆苦
・『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ

 正義の味方までいかなくても、そういう「何かと戦おう」という感情が強い人は、すごくストレスが溜まっていて、いろいろな問題を起こします。(中略)
「悪に向かって闘おう」「正義の味方になろう」というのは仏教の考え方ではありません。「正しい怒り」など仏教では成り立ちません。どんな怒りでも、正当化することはできません。我々はよく「怒るのは当たり前だ」などと言いますが、まったく当たり前ではないのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

 事実を指摘された時、素直に耳を傾けることができる人は少ない。もちろん私もそうだ。歴史認識のテーマが錯綜する最大の理由はイデオロギーの正当化にある。人類が都市化するに伴って宗教を巡る議論は教団の論理で語られるようになってしまった。つまり宗教はイデオロギーに堕したのだ。「怒り」は幸福な生命状態ではない。「怒り」が正しいと思うなら、朝から晩まで怒っていればよい。心ある人々は速やかに離れてゆくことだろう。スマナサーラが正しければ日蓮は誤っている。日蓮が正しければスマナサーラが誤っている。それを自分で判断すればよい。

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

2014-05-30

勝ち負けを超越した道

1月15日 すぐれた道とは

 勝ち負けを争うのではなく、勝ち負けを超越した道をさがすことが大切です。
 すぐれた道とは、それぞれが「自分の能力を発揮する」道です。それによって、争うことなく、自分に適した世界が開かれていくのです。
 他人と競争して勝ち取る気持ちでいると、自分の能力は劣化するのです。
 他人と関係なく、自分の能力を思う存分活かすことです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年)】

 創価学会では切り文を更に短く切り詰めて「仏法は勝負」が合言葉になっている。

・イズムの罪~「勝負主義」と「現証主義」について
・師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(四條金吾御書/仏法王法勝負抄、告誡書、世雄御書とも)。真蹟はない(※調べるのに1時間要した)。ただし、

 山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P609)
「内容的には『頼基陳状』や同陳状の送り状たる『定番』250『四條金吾殿御返事』と密接に関連しており、真撰遺文として良いであろう」

【1277年・建治3年 56歳:日蓮ノート】

 とのこと。創価学会が誤読しているのは通解と講義の内容に差異があるためだ。

 そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としています。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけているのです。(通解)

 しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を“さき”とし、王法は賞罰を“本”とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。“さき”とは、前後の“前”ではない。“本”に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が“本”である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということでなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
 仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果することが証明されるであろう。
 王法が賞罰を“本”とするということは、真に功ある人が賞せられ、真に罪ある人が罰せられることによって、それが秩序の維持と、人民の行動を律する規範となっていくのである。つまり賞罰とは、手本であって、全ての人々の行動に対する結果ではありえない。王の権力がいかに緻密に人々の上に行きわたっていようと、全ての人の、全ての行動を網羅することは不可能である。賞せられなかった人でも、賞せられた人より功ある人もいよう。罰せられた人よりはるかに大きい罪を犯しながら、罪を免れる人もありうる。これは、全体的統括を司る王法のもつ限界ともいえよう。ともあれ、ここに、王法と仏法の根本的相違があるのである。(講義)

【四条金吾殿御返事(世雄御書) 第一章 仏法と王法の相違 : 創価教学研究室(赤鬼のブログ)】

 私がこの内容を鮮明に記憶しているのは、二十歳の頃に幼馴染みの先輩と1時間ほど議論をしたことがあるからだ。私は「葉先」の意味がまったく理解できなかった。「じゃあ、仏法の根本って何なの?」と何度も何度も先輩に質(ただ)した。

 もっとわかりやすい遺文を紹介しよう。

「同延暦二十一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学勤操・長耀等の十四人を召し合わせて勝負を決断す」(安国論御勘由来 文永5年)。

「抑そも俗諦・真諦之中には勝負を以て詮と為し、世間・出世とも甲乙を以て先と為すか。而るに諸経諸宗の勝劣は三国の聖人共に之を存し、両朝の群賢同じく之を知るか。法華経と大日経と天台宗と真言宗の勝劣は、月支・日本未だ之を弁ぜず。西天・東土にも明らめざる物か。所詮、天台・伝教の如き聖人公場に於て是非を決せず、明帝・桓武の如き国主、之を聞かざる故か」(大田殿許御書 文永12年)。

「而れども漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるかのゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万民にいたるまでおぼしめしをもえり」(撰時抄 建治元年)。

「抑そも日本国の主となりて、万事を心に任せ給へり。何事も両方を召し合わせてこそ勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれば日蓮一人に限りて諸僧等に召し合わせずして大科に行はるゝやらん。是れ偏にただ事にあらず」(下山御消息 建治3年)。

「結句は勝負を決せざらむ外は此の災難止み難かるべし」(富木入道殿御返事 弘安元年)。

 以上が真蹟に書かれている「勝負」のすべての文である。日蓮が説いた勝負は法門の勝劣であり、公場対決を目指したものであったことは疑う余地がない。少なからず創価学会員の中にもきちんと理解する人物はいるようだ。

・『世雄御書』:地下者覚書

 創価学会はひたすら勝負を煽り、会員を競争に駆り立てる。元々プラグマティックな行動原理が新自由主義的になったのは池田の会長勇退以降であろう。池田が再び聖教新聞紙上に現れた昭和56~57年頃から「仏法は勝負」が連呼されるようになった。

 もっともらしい顔つきで「自分に勝つこと」などという気取り屋もいるが、その実態は「選挙の勝利」にある。選挙に負けてばかりいる会長が大きな会合で土下座させられたこともある。こうした行為のどこにブッダの精神があるというのか?

 スマナサーラ長老の言葉は平易で万人が納得できる。勝負にこだわるのは諸法無我を知らないためであり、自我に執着する醜い姿だ。しかもネットでブーブーやっている創価学会員の99%は組織内の負け組で、全国制覇とは無縁な連中ばかりだ。ためしに「あなたは個人折伏を何世帯やっているんですか?」と尋ねてみるといい。

「仏法は勝負」と騙(かた)り、争いを正当化するところに創価学会の本質がある。

 仏法は勝負であるわけがない。仏法は四諦であり、苦から離れるところに目的がある。

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)

2014-03-21

過去世の物語

 インドの社会では宗教に励む人が精神的な修行をして、認識の範囲をものすごく広げてみたのです。(中略)そういう人々が初めて、死後の世界、というよりは過去の世界について語り始めた。それはほとんど自分自身の過去のことなのです。「自分は過去世でこんなふうに生きていました」と。そこで過去世があるのだから、推測によって未来世もあるだろうと言い出したのです。

【『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ(国書刊行会、2005年/角川文庫、2012年)】








死後はどうなるの? (角川文庫)

2013-05-01

遺恨 十年 一剣を磨き



 遺恨とは捻(ねじ)れた怒りの異名である。怒りは「頭に来る」が遺恨は「肚に溜まる」。恨みを晴らすという言葉が示すのは「曇った心」だ。政党、企業、教団、学校が争いに明け暮れている。そして敗れた大多数の者たちが遺恨を抱く。恨みは怒りを自己正当化する。終わることなき争いの輪こそ六道そのものであろう。

「人間が生きる」ということは、「好きなものを得るために行動する」「得られないものや邪魔するものはぜんぶ壊す」のいずれかです。我々の日常生活は、この二つのエネルギーに支配されているのです。

【『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

心は病気―役立つ初期仏教法話〈2〉 (サンガ新書)

2012-12-30

人生には本当は「今日」しかない

 人生には本当は「今日」しかないのです。ですから、人生に失敗したくなければ今日に失敗してはいけません。今日に失敗しない人は、明日があったら明日も失敗しませんし、明後日があったら明後日も失敗しません。これは明白な論理です。

【『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話 3』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2007年)】

苦しみをなくすこと―役立つ初期仏教法話〈3〉 (サンガ新書)

2012-12-28

後悔も「怒り」

 後悔も「怒り」です。罪です。過去のやったこと、やらなかったことにとどまっていますから、その人は前に進めなくなります。失敗を思い出すたびに足が止まってしまいますし、前に進んでいる人でもスピードが下がります。

【『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)】

怒らないこと 2―役立つ初期仏教法話〈11〉 (サンガ新書)

2012-12-27

怒りを甘くみてはいけない

・「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる」のか?
・他人を増上慢呼ばわりする人物

 ・怒りを甘くみてはいけない

・セネカ「怒りを有益なものと考えるわけにはいかない」

 怒りを甘くみてはいけません。怒りが生まれた瞬間に、からだには猛毒が入ってしまうのです。たとえわずかでも、怒るのはからだに良くないとしっかり覚えておいてください。怒りはまず自分を燃やしてしまいます。本当に自分のからだが病気になってしまうのです。

【『怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2006年)】

怒らないこと―役立つ初期仏教法話〈1〉 (サンガ新書)

・「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる」のか?

2012-11-17

「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる」のか?

 ・「瞋恚(しんに)は善悪に通ずる」のか?

・他人を増上慢呼ばわりする人物
・怒りを甘くみてはいけない
・セネカ「怒りを有益なものと考えるわけにはいかない」

 下書きのまま放置してあったのだが推敲する時間がないためアップする。

 日蓮遺文の「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)に関する覚え書き。

 始めにいくつか確認を。

『諫暁八幡抄』の御真蹟は、全体の約3分の1(前半部分)が身延の大火で焼けて、全体の約3分の2(後半部分)が、現在、大石寺に保管されています。

【メールマガジン「日蓮大聖人の御書を拝して」今泉寬眞】

・【検証】諫暁八幡抄に切り貼りされた竜門御書の日蓮花押
・続き

 そういえば、最も身近な『蓮師真蹟に後加された異筆』は、石山の「諫暁八幡抄」でしたね。(独学徒)

【冨士教学研究会談議所】

 私には「後加された異筆」であるかどうかがわからないため、一応真蹟曽存としておく。本文では直後にこう続く。

 只不軽のごとく大難には値ふとも、流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅念仏者等の讒奏に依て無智の国主等流難をなす。此れを対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背くべしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。

 つまり日蓮の「瞋恚(しんに、しんい)」=怒りは法華経の行者を守護せぬ八幡大菩薩に向けられたものであることが明らかだ。注目すべきは不軽菩薩を引用していることで、ここから「怒り」の感情を正当化したものではないことが読み取れる。

 ところが、である。創価学会では池田vs.阿部紛争以降この切り文を引っ張りだして日蓮正宗を口汚く罵り続けた。機関紙である聖教新聞には紙上座談会なるプロパガンダ記事が連載され、怒りの矛先(ほこさき)は公明党元委員長の竹入義勝氏や矢野絢也氏にまで向けられた。

・聖教新聞社殿御返事→善無畏三蔵抄

 特に次期会長と目される谷川佳樹氏の発言は致命的だと思われる。

 私も含めて殆どの創価学会員は気づかなかったわけだが、結局こうした言論活動を通して創価学会は暴力を容認したものと考えてよい。そもそも意図的に差別用語を盛り込んでまで相手を罵詈讒謗(ばりざんぼう)することが宗教性であるはずがない。

 何度でも書くが「教義は解釈されるもの」だ。情報は受け手によって歪められる。知覚ですらそうなのだ。そして教団は自分たちに都合のよい解釈を施して信者に与える。そう。一種のエサみたいなもんだ。

 瞋恚(しんに)が善悪に通ずる、というのはもちろん仏法ではない。当たり前だ、そんなことは。三木清だって同じようなことを言っている。

 今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
 切に義人を思う。義人とは何か、── 怒ることを知れるものである。

【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】

 哲学レベルでさえ、「他者を攻撃せよ」「敵を罵れ」とはいっていない。ただし執着の強い連中であれば、日蓮遺文の「責める」という語句を持ち出して怒りを正当化することは可能だろう。ま、勝手にしろ。

 ブッダは怒りを否定した。筍子〈じゅんし〉ですら否定している。

 快快にして亡ぶは怒ればなり。察察にして殘(そこな)うは忮(さから・逆)えばなり。(筍子)

【諸子百家争鳴】

 スッタニパータは「蛇」の章から始まる。冒頭はこうだ。

1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。

 怒りを「蛇の毒」に喩(たと)えている。既に毒が回った連中からすれば信じ難いことだろう。日蓮正宗信徒を罵倒する創価学会員は多分こんな表情をしている(逆もまた同様)。

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 上は道行くパレスチナ人女性を悪罵(あくば)するイスラエルの学生で、下はエリザベス・エックフォードを罵ったヘイゼル・ブライアントの写真である。当時15歳。アメリカで黒人の登校が許された初日に、エリザベス・エックフォードは帰宅せざるを得なくなった。周りにいるのは通行人ではない。彼女を追い回す白人どもだ。

 旧ブログでパレスチナの画像を紹介したところ、「残虐すぎる」という声が寄せられた。自分たちの暴力性に鈍感な連中が叫ぶ正義ほど信用ならないものもあるまい。

 尚、ブッダが説いた怒りについてはアルボムッレ・スマナサーラが軽妙な語り口でわかりやすく説いている。これを読んでも目が覚めない連中は、一生毒に酔ってもらうしかない。