2016-01-02

宗教とフィクション


 フィクション(虚構)には力がある。私の世代が小学生で野球を始めたのは『巨人の星』(TVアニメ版)の影響が大きい。日本でプロサッカーリーグが誕生したのは『キャプテン翼』の功績といってよい。

 もともと物語は老いから若きへと「語り」を通して伝承された。人々は物語によって人生の規範や社会のルールを学んだ。グーテンベルクの印刷革命がマスコミュニケーションを可能にし、メディア革命はラジオ~映画~テレビ~インターネットと変遷を遂げた。

 フィクションの目的は「感情の操作」にある。喜怒哀楽を揺さぶり、カタルシスを与えることで社会に対する不満を解消する作用がある。現在では「パンとサーカス」のサーカスに該当するものが殆どだ。

 後期仏教はヒンドゥー教の復興に対抗するべく「仏教の物語化」を図った。これが私の見解である。つまり日本仏教はフィクションの上に成り立っているのだ。

池石戦争」によって創価学会における師弟関係も単なる作り話であることが判明した。さすがの私も驚愕した。

 大衆はいつの時代も物語を求めている。そして事実は歪められ、強者に都合のよい歴史が綴られる。例えば明治維新前後や大東亜戦争前後で世の中は一変した。いわゆる従軍慰安婦問題や南京大虐殺もフィクションである。本多勝一が『中国の旅』で紹介した「百人斬り競争」も新聞記者が捏造したフィクションであった。

 結局のところ外務省による放置・不作為が日本の国益を損ねるに至ったわけだが、こうした外務省の体質はGHQの占領下に形成されたものだ。外務省の官僚は殆ど公職追放されることなく、マッカーサーの手足となって働いた。その後、追放された党人派が自民党に復帰し、吉田茂率いる官僚派と熾烈な闘争を行う。

 話を元に戻そう。一神教はすべてフィクションである。


 スッタ(sutta)は「糸」という意味ですが、それよりも英語のフォーミュラ(formula)という言葉の意味がふさわしいかもしれません。フォーミュラは数学でいえば「式」という意味です。哲学や文法を語る場合も、まず「式」を作ってから語ることは、インドではよくあるやり方なのです。

【『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ(佼成出版社、2009年)】

 真の宗教は数学のように単純で、そして美しい。

原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章