茂木健一郎が心酔し、池田晶子が惚れ抜いた講演(「信ずることと考えること」昭和49年8月5日、鹿児島県霧島)である。
私は小林秀雄が大嫌いだが、この講演は50回ほど聴いている。茂木も書いているが古今亭志ん生そっくりの語り口だ。学生の聴衆を前にして冒頭で小林は超能力者ユリ・ゲラーについて語り始める。そこで「クリシナムルテ」とクリシュナムルティの名を挙げているが、これは神秘時代の話。小林の学生時代からの盟友であった今日出海〈こん・ひでみ〉(今東光の弟)の父・今武平〈こん・ぶへい〉が神智学協会の会員であり、クリシュナムルティの最初の日本語訳を著している(『阿羅漢道』クリシナムルテ:今武平訳、文党社、
1925年/後に田中恵美子が新訳で発行『大師のみ足のもとに/道の光』)。
・小林秀雄「池田大作さんには政治家肌というところがあるな」
2014-04-05
2014-02-02
カント「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
「自ら反(かえり)みて縮(なお)くんば、千万人と雖(いえど)も吾往(ゆ)かん」(公孫丑章句上)という孟子の言葉と響き合っていますね。 RT @ujikenorio: 「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 12
でも、よくよく考えると啓蒙という言葉は、「啓蒙する側」しか使いませんよね(笑)。勝手に蒙(くら)いと決めつけられた方はたまったもんじゃない(笑)。 RT @ujikenorio: 冒頭で、「啓蒙」という言葉の意義を明らかにすることをカントは述べております。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 12
2013-05-16
精神の習慣性を破るものが懐疑である
懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現わしている。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初(ママ)としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかも独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)以下同】
石はたとい百万遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない。習慣は生命の内的な傾向に属している。
40代でこれがわかれば人生の質が異なってゆく。
・真の懐疑は精神の成熟を示す
・三木清
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