懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現わしている。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端初(ママ)としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係附けであり、独断は目的への関係附けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかも独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)以下同】
石はたとい百万遍同じ方向に同じ速度で投げられたにしてもそのために習慣を得ることがない。習慣は生命の内的な傾向に属している。
40代でこれがわかれば人生の質が異なってゆく。
・真の懐疑は精神の成熟を示す
・三木清