見知らぬ方からお手紙を頂いた。ちょっと前、座談会で読んでもらう原稿を書いたんだけど、それについてのご感想。簡単にいうと「模倣に意味はない」って話をしたんだけど、「凡夫には模倣でしか近づけない真理がある。その方途を批判するのは成仏の道を塞ぐ残忍な行為だ。」とのこと。一応、想定内。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月23日
で、真理に近づいた人はどこにいるのだ? いるんだったら連れて来てもらおうか。私が相手になってやるよ。模倣で真理に近づけるのであれば、付法蔵の二十五人は百人、千人と連なるはずではないのか? しかも日蓮は「又付法蔵の二十五人は仏をのぞきたてまつりては、皆仏のかねて記しをき給へる権者なり」(真蹟)と断言しているのだ。
また模倣とは何か? 聖教新聞の多部数購読や多額の負担を強いる財務、打ち合わせ、書類作り、会合に次ぐ会合……。これらのどこで仏法が語られているのか? そもそも誰の模倣なのか?
「成仏の道」など聞いたふうなことを言っているが成仏した人はどこにいるのか? 死相判定以外の成仏があるなら持って来いや、って話だわな。
果たして模倣でイチローや三浦雄一郎になることができるだろうか? 模倣すればミケランジェロやダ・ヴィンチのような絵を描くことができるのか?
10年、20年、あるいは30年以上も模倣をしてきて一つの創造もないとすれば、それは単なる物真似かごっこの世界であることを自覚すべきだろう。
模倣によって悟りが得られることはない。模倣とは自分を特定の鋳型にはめ込む営みにすぎないからだ。
・模倣