結局先駆者・改革者というのは既成の制度から超脱して、野人として闘っていかざるを得ないというのが宗教史の語る一つの側面かも知れません。そしてそれは党派形成ではなく、運動としてのみ存在せざるを得ないというところでしょうか。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
ここに言葉の重要性があるわけです。独善性ではなく、人々の苦悩に寄り添い、心を打つ言葉を手繰る必要性。 RT @ujikenorio: 結局先駆者・改革者というのは既成の制度から超脱して、野人として闘っていかざるを得ないというのが宗教史の語る一つの側面かも知れません。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
(評価はおきますが)内村鑑三の無教会も、無教会主義の同人であり、教会形成が目的ではない。教会化しようとすると内村はその潮流をすぐさま叩き潰してしまう(と、同時に思想的転回も行うのですが)。不敬事件のことよりも、そうした内村の足跡は、もっと評価されてしかるべきだろう。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
サンガとは社会の外側に位置する組織であったと想像します。しかも、脱社会でありながら脱ヒエラルキーであったことでしょう。これは経済性・政治性から離れることを意味していると思う。 RT @ujikenorio: 内村鑑三の無教会も、無教会主義の同人であり、教会形成が目的ではない。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日
集団化は必ず匿名主義へと道を開く。だから内村は「私は、、、」という言述にこだわった。匿名主義は宙ぶらりんな言葉だからだ。ただしそれが過度に強調されると、又一つの教祖化を招いてしまうことも付言(吉満義彦は恣意的で「人間臭い」といってカトリシズムへと転回しましたが)。
— 氏家法雄さん (@ujikenorio) 2010年9月10日
犀の角のように独り歩む者同士の連帯は果たして可能なのか? それは互いの距離を維持しながらの行進となる。果たしてその大地とは? RT @ujikenorio: 集団化は必ず匿名主義へと道を開く。だから内村は「私は、、、」という言述にこだわった。匿名主義は宙ぶらりんな言葉だからだ。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2010年9月11日