教えを普及させるために儀式ができる。そのうち儀式が独り歩きして、教えを理解しないまたは曲解した人間が儀式を継承する。そんで儀式を語りはじめる。馬鹿はそうして生まれる。でも仕方が無いと思う。儀式っちゅうのは元々普及のために馬鹿のレベルに合わせたものなんだから。
— 山本かっぱさん (@shirayuri_kun) 2013年5月21日
@shirayuri_kun これはそう簡単な話ではないんだな。
— 小野不一さん (@fuitsuono) 2013年5月21日
少し解説しておこう。宗教の始原を考えると祭儀や死者を送る行為の重要性が浮かんでくる。儀式は単なる形式というよりも手続きと考えるべきだろう。つまり共同体を支えているのは儀式(≒手続き)なのだ。これは現代社会においても何ら変わることがない。冠婚葬祭に始まり、卒業式、成人式、入社式、はたまた訴訟から役所の書類に至るまで儀式のオンパレードであるといってよい。
一時期自由な葬儀のあり方が話題となったが、現在では簡素化を嘆く声も多い。悲嘆を確認し合う行為が共同性を支えているためであろう。
儀式が完全に生活に溶け込んだものが礼儀である。多分かっぱ君の言いたかったことは、礼儀の意味や心を失えば儀礼と化すことへの懸念であったのだろう。
儀式性と宗教性は一大テーマである。新しい形の「祭り」を創造しなければ、大衆は暴力に傾斜しやすくなることだろう。
・化儀を考察するヒント
・戒律の問題
・進化宗教学、あるいは宗教工学に関する覚え書き