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2016-12-21

老人が尊敬される時代は終わった


 実に興味深い指摘である。相対的な視点から「老人のvalue低下」という現実を炙(あぶ)り出す。「value(値打ち)低下」が「経験の値打ち」を示唆していて恐ろしい。一読して直ぐに気づいたことは「社会から密教性が失われた」ことだ。仏教の密教化はクソなんだが、密教性そのものを否定するのは浅はかというもの。直観的叡智や阿吽(あうん)の呼吸は生活の中でも決して珍しくはない。要は閃(ひらめ)きである。洞察力と言い換えてもよい。

2015-04-08

スピリチュアリズムとは密教的飛躍


http://tinymsg.appspot.com/rnO


http://tinymsg.appspot.com/4P4


http://tinymsg.appspot.com/SzB


http://tinymsg.appspot.com/9Ca3

2015-02-11

スティグマと漢字の呪能

 珍しく知的な刺激を受けた。ツイート一つでもこちらの何かを引き出してくれることがある。「×印」と書いたのは例えば「胸」や「凶」の「メ」である。旧字に含まれる「文」も同様で、「彥」(彦)は顔に文身(いれずみ)を加えた形で、「顏」(顔)は文身を加えた額を表す。



スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ 儀礼 タブー・呪術・聖なるもの 漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)

2014-12-28

密教の暴力性~度脱(ドル)

 しかも、ただ単に翻訳家にとどまらず、彼自身がすぐれた霊的能力の持ち主であり、実践をなによりも重視する密教の導入に欠かせない逸材といってよかった。
 そのドルジェタクには、しかし、闇の部分があった。彼は自分に敵対する者を、仏教における智恵の神、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身(けしん)にして冥界の王たるヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)を主導とする密教修法によって、つぎつぎに葬り去っていったのである。彼が用いた秘儀を「度脱」(ドル)という。度脱は、ある特定の人物を、それ以上の悪事を重ねる前にヴァジュラバイラヴァの秘法を駆使して呪殺し、ヴァジュラバイラヴァの本体とされる文殊菩薩が主宰する浄土(じょうど)へ送り届けるというものである。ドルジェタクは、おのれの行為を慈悲の実践にほかならないと主張した。

【『性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃(講談社選書メチエ、2002年)】

 ここに密教の暴力性がある。オウム真理教のポアと一緒だ。確かに人間を「業の当体」と見れば、悪業を積む人間の殺害は正当化が可能である。ただし法の二重性に注意する必要がある。ブッダが説いた法はダルマであるが、教団内や社会におけるルールは律法である。

 戒律については思索していた時期があったが、さほど深まることはなかった。








 本来の戒律はサンガ(ブッダを中心とする共同体)が社会に依存してゆく上でのモラルであったと思われる。ところが現代宗教における戒律は教団の権力機能を有しており、事実上「村の掟」と化している。

性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光 (講談社選書メチエ)

2014-12-22

密教の特色

 密教の特色は「曼荼羅」による世界象徴と「真言」による世界獲得である。

【『つぎはぎ仏教入門』呉智英〈くれ・ともふさ〉(筑摩書房、2011年)】

 呉は宮崎哲弥が「評論家の師匠」と呼んでいる人物で、彼自身は儒者である。常識という視線から見つめた仏教論が面白い。

つぎはぎ仏教入門

2014-12-21

密教とタントリズムに関する覚え書き

 タントリズムとは儀礼とシンボル機能を重視し、直接的に宇宙原理と自己を結びつける宗教形態で、ヒンドゥイズム興隆の時代(紀元600-1200年)にバラモン系および非バラモン系の諸宗間で花を開いた(『はじめてのインド哲学』立川武蔵、1992年)。たぶん理論に飽きたのだろう。左脳から右脳への揺り返しと見る。

 一方、密教といった場合、仏教におけるタントリズムを意味することが多い。端的にいえば、マントラ(真言・陀羅尼)-マンダラ-本仏思想-即身成仏という構図を描く。こちらもやはり右脳に傾いている。

 西洋の思想・宗教が言葉に重きを置く(「はじめに言葉ありき」新約聖書「ヨハネによる福音書」)のに対して、東洋は言葉に対して懐疑的な態度を示す。西洋だと法が律法に向かうが、東洋は歩むべき道と受け止められる。

 日本仏教は最澄によって密教化した。その意味では日本仏教というよりも日本密教と称するのが正しい。この辺りの言葉遣いを正しておかなければ日本独自の仏教文化を歴史の定位置に収めることが難しいと思う。

 同様に考えると日蓮を本仏と仰ぐ宗教は日蓮教というべきで、これまた正確を期せば日蓮密教となる。

 私が今抱いている疑問は、なにゆえ日本密教がヨガを採用しなかったのかという一点である。インド密教(主にヒンドゥー教)はヨガを徹底的に追求した。実際に悟りを開いたように見える人物も多い(『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ )。

 個人的にはバガヴァッド・ギーター、ニューエイジ・ムーブメントも密教であると考える。

 有り体に申せば、密教とはスピリチュアリズムである。そして【ミラクルがマジックとなる】ところに密教の落とし穴がある。

 論理(左脳)で悟ることはできない。そして悟り(右脳)を言語化することも難しい。ここに難問が潜んでいるとすれば、脊髄の活性化を目指すヨガは意外と正しい方向性を目指しているように思う。背骨で右脳と左脳はひとつになっているわけだから。

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

・『はじめてのインド哲学』立川武蔵

2014-11-07

スピリチュアリズムとは密教的飛躍


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2014-07-15

日本仏教

 キリシタン時代に日本にやってきた宣教師は、最初は日本の仏教が東南アジアの仏教と同じ起源をもつ宗教だと気がつかなかったほどです。

【『日本仏教史 思想史としてのアプローチ』末木文美士〈すえき・ふみひこ〉(新潮社、1992年/新潮文庫、1996年)】

 別物と考えるべきだろう。日蓮思想といえども結局は比叡山の内部論理から導き出されたもので、ブッダから遠ざかり久遠本仏を奉るようになってしまった。神智学協会を比叡山とすれば、日蓮は星の教団という位置になる。いみじくも神秘時代に書かれたクリシュナムルティの著作『大師のみ足のもとに』には「オカルティズム(密教)」という記述がある。

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)

・末木文美士

2014-06-28

「先輩からの手紙」に思うこと 6

・先輩からの手紙
・「先輩からの手紙」に思うこと 1
・「先輩からの手紙」に思うこと 2
・「先輩からの手紙」に思うこと 3
・「先輩からの手紙」に思うこと 4
・「先輩からの手紙」に思うこと 5
・「先輩からの手紙」に思うこと 6
・「先輩からの手紙」に思うこと 7
・「先輩からの手紙」に思うこと 8
・「先輩からの手紙」に思うこと 9
・「先輩からの手紙」に思うこと 10

「原始仏教及び仏教思想史全般を再検討して評価し直すとしたらどのように位置づけられるのか」(先輩からの手紙 5)というテーマで日本仏教はいまだ混乱の域を脱していない。やはり鎌倉時代の教祖へのこだわりを払拭できないのであろう。私の場合はクリシュナムルティを通してブッダの初期経典が読めるようになったので迷うことはなかった。

 教相判釈という天台ルールがあり、これに比叡山の密教エートスが加わることで鎌倉仏教は成立している。文脈やルールが異なるものを同列に論じても意味はないだろう。柔道と柔術は別物だし、テコンドー(松濤館空手から派生)と空手も異なる。日本の仏教界は鎌倉仏教に固執するあまり、大乗非仏説を軽んじてきた経緯がある。

 科学的・歴史的アプローチを欠いてきたツケが強い圧力となって日本仏教界にのしかかっている。佐々木閑〈ささき・しずか〉が「大乗仏教は、部派仏教の延長線上に現れた、出家者僧団の宗教であった」(『インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』大蔵出版、2000年)と指摘しているが、いずれにせよ仏法にプラグマティズムの混入を認めるかどうかという問題であろう。

 もともと私は無名(=無署名)の小ブッダが次々と登場することで仏教思想が復興・発展したと考えてきたが、歴史の実態を見ると教団同士の抗争的色彩が強い。特に密教要素を取り入れた事実が重要で、これを私は仏教によるヒンドゥー教回帰と判断している。つまり「大衆受けする物語の創作」が仏教史の本質であるように思われてならない。

 日蓮にしても鎌倉時代という情報制約を避けることはできなかった。であればブッダに還ればいいだけのことだろう。どんなに頑張ったところで大乗思想がブッダを凌駕することはないのだから。

「裸の王様なのに、組織のシンボルとして担いでいる手前、誰もそれを指摘しない。影に回ればいろいろ言っていても、皆で虚構を作り上げていく。そして神話化し、集団として危ない橋を渡りだす」(先輩からの手紙 6)という部分については、原島嵩〈はらしま・たかし〉の『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』に具体的な話が書かれている。

誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実
原島 嵩
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2014-05-24

「先輩からの手紙」に思うこと 5

・先輩からの手紙
・「先輩からの手紙」に思うこと 1
・「先輩からの手紙」に思うこと 2
・「先輩からの手紙」に思うこと 3
・「先輩からの手紙」に思うこと 4
・「先輩からの手紙」に思うこと 5
・「先輩からの手紙」に思うこと 6
・「先輩からの手紙」に思うこと 7
・「先輩からの手紙」に思うこと 8
・「先輩からの手紙」に思うこと 9
・「先輩からの手紙」に思うこと 10

「『先輩からの手紙』(4)」では日本仏教(平安~鎌倉仏教)に巣食う本質的な問題が提示されている。私流に言い直すと、大乗思想(大衆部)と密教性をどう捉えるかというテーマだ。「御本尊は禅定の指標」であったとしてもマントラ復唱と禅定の整合性がとれない。そして禅定を語る人が創価学会には一人もいない。つまりマンダラは幸福製造機(戸田城聖)であって、苦からの解放(自由)を説いたブッダの教えとは別物と考えられよう。これが「煩悩論を掘り下げて理解していなかった」結果であり、法よりも人に重きを置いて外道化(個人崇拝)せざるを得なかった最大の原因である。

 火星人が地球にやってきたとしよう。彼らに日蓮正宗と創価学会の違いを理解させることは可能だろうか? もっと広げてみよう。彼らが日本における各仏教教団の違いを理解できるだろうか? 私はキリスト教、イスラム教、日本仏教の違いすら理解できないものと考えている。「テキストに従う宗教」(啓典宗教)という重要な一致を除けば、瑣末な小数点以下の違いがあるだけだろう。

 因みに「S氏」で思いつく人物は二人いるが名前は挙げないでおく。

2014-05-16

超越主義とスピリチュアリズム



 これが実は中々難しい問題なのだ。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と似た趣がある。スピリチュアリズムも同様の二重性をはらんでいる。私は日本仏教の密教性(スピリチュアリズム)には否定的だが、インディアンのスピリチュアリズムは肯定する。また、非我という訳語は超越と親和性があるように思う。我の存在を認めているためだ。個人的には無我が正しいと考えている。

2014-04-21

仁王経は偽経


仏典はどう漢訳されたのか――スートラが経典になるとき

2014-03-28

メッセージを発信する者のリスク その二&日蓮とマントラ

 昨日「メッセージを発信する者のリスク その一」を書いたところ、数通のメールが寄せられた。「前に褒めてましたよ」という内容であった。

・日蓮とマントラ

 失礼。同一人物であることに気づかなかった。ま、「それはそれ、これはこれ」ということにしておこう。発信者リスクのその二として「メッセージ量が増えるにつれて記憶があやふやになる」ことを挙げておく。ただし私は「教えを請え」とは書いたが、「ついてゆけ」とは書いていないからね(←言いわけ)。文章の巧拙や斬新なアイディアと人間性は一致するものではない。ウェブ空間は表情や声の情報を欠いているため、人物判断を誤ることが多い。メッセージが放つ匂いに鈍感な人は日常生活においても判断を誤っている可能性が高い。

 ついでだから日蓮のマントラに関する私論を述べておこう。称名念仏の原理を説いたのは中国の善導(613-681年)で、それをポピュラーなマントラにしたのは鎌倉時代の法然(1133-1212年)である。文字通り人口に膾炙(かいしゃ)したわけだ。日蓮は南無妙法蓮華経を念仏ではなく題目と称した。とすると仏の名ではなく題名と考えてよい。

 題名であるにもかかわらず日蓮は「文底秘沈の大法」と言い切った。よく考えてみよう。題名が大法であるはずがない。仮に法華経の文の底に沈められた何かがあるとすれば、偽書『当体義抄』で紹介されたマントラ(真言)を説いた人々も日蓮モデルでいうところの本仏となり得るだろう。

 南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり。

【創価学会版を参照した】

 直前に「妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり、但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食されしなり」とあるが、悟りとは内証の次元であって、流布するしないとは一切関係がない。こうした日蓮の発想はすべてが天台ルール(五時八教=教相判釈)に基づいており、科学的な検証をすることが不可能だ。つまり日蓮モデル(理論)は天台ルールという重力の上でのみ記述が有効となるのだ。

 ブッダの遺言は自帰依・法帰依であった。その直前に重要な指摘をしている。

「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか」

【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年)】

「教師の握拳は、存在しない」――すなわちブッダは一切の秘伝を拒否したのだ。秘密を重んじるのは密教の流儀である。

 日蓮のマントラは知識が広まりにくい時代(識字、印刷技術、通信技術が未発達)における手っ取り早い不安解消法の一つであったのだろう。また日蓮が終生求めた公場対決(公開法論)というデモンストレーションも極めて政治的な動きである。その意味では社会改革に傾いているのだが、社会福祉に大きな寄与をした忍性(にんしょう=良観)批判との整合性がとれない。

 南伝仏教(上座部)が伝わった時点で天台ルールは崩壊したと考えるべきではないか。

ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経 (岩波文庫)

2014-02-14

相承の可能性




「師資相承」(ししそうじょう)や「血脈相承」という概念は密教に特有のもの。

(※universal salvation:生きとし生けるものすべての救済)

2013-08-14

超越主義とニューエイジ・ムーブメント



 重要な部分なので少々解説しておく。トランセンデンタリストは超越主義者のこと。

 もう少しアメリカの歴史を辿れば、『若草物語』で知られるルイーザ・メイ・オルコットの父親(※エイモス・ブロンソン・オルコット/オルコット大佐とは別人)に注目する必要がある。このオヤジがエマソンやソローに超越主義を吹き込んだのだ。

【神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール】

 超越主義はエマソン、ソローらによって息を吹き込まれ、ウォルト・ホイットマンにも影響を与えている。

 私はここにニューエイジ・ムーブメントの淵源があると考えている。

 不幸なことにクリシュナムルティはニューエイジの教祖みたいに祭り上げられているが、むしろニューエイジは神智学協会の思想と親和性があるように思われる。神智学協会というのは、言ってみれば「世界の比叡山」みたいなものだ。

【付記 8月18日】神智学協会とニューエイジを「密教≒スピリチュアリズム」で括ることは可能だと思われる。

2013-02-02

日蓮とマントラ




 これは凄い。卓見だ。ビックリした。私も一時期考え続けた。で、結論が出ないのであきらめた。興味も潰(つい)えた。英知の閃光は脳に電気ショックを与える。そう。感電だ。ウトウトしていた私の目が覚めた。

 脳はリフレインに快感を覚える。例えば歌のサビ部分。また単純な行為の繰り返しも同様だ。ランナーズハイなど。一種の瞑想といえるが、やはり瞑想の本質とは言い難い。

 簡単な思考実験をしてみよう。朝から晩までひたすら唱題をする一生に価値はあるだろうか? ま、やってみなくちゃわからんわな。でも、やっている人がいないのだから「ない」と考えていいだろう。とするならば、マントラ口唱は宗教行為ではあっても宗教目的ではない。

 実は右脳は常に悟っている状態にある。そこから私は本覚思想を読み解いた。

・本覚論の正当性/『反密教学』津田真一
・本覚思想とは時間論/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
・本覚思想とは時間的有限性の打破/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 キーワードはやはり「今ここ」である。

 脳科学者のジル・ボルト・テイラーは脳卒中を通して脳という宇宙を体験した。その彼女がこう書いている。

 読経に聴き入ることは、感情と生理を伴う思考パターンに導くために、心を好ましくないループから抜け出させるもうひとつの重要な手段になります。祈りも、好ましくない思考パターンを、意図的に選んだ思考パターンに換えてくれるので、蜂の巣をつついた騒ぎのような言葉のくりかえしから、意識的にもっと平和な境地へ導く手段となるでしょう。

【『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー:竹内薫訳(新潮社、2009年/新潮文庫、2012年)】

 瞑想とマントラに架橋する一言であると思う。

 若い者は@sinkousya氏に教えを請え。

奇跡の脳: 脳科学者の脳が壊れたとき (新潮文庫)

・脳内出血で悟りを開いたジル・ボルト・テイラー
・日蓮がマンダラ&マントラを勧めたのは印刷技術がなかったため
・メッセージを発信する者のリスク その二&日蓮とマントラ

2012-11-16

恐怖こそが祈りの原動力かもしれない




2012-10-21

密教という異臭


 私はクリシュナムルティと遭遇してから初めて『スッタニパータ』に感動を覚えた。ティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラの著作がストンと腑に落ちるのは、たぶん密教という異臭がないためだろう。初期経典は素朴な言葉であるにもかかわらず、抽象度の高さが桁外れだ。

「大乗仏教は仏法を啓典宗教化し、密教による様式化(儀式性)はヒンドゥー教への先祖返りである」と以前書いた(師弟不二と人間主義)。その思いは深まるばかりだ。

2012-10-04

単なる「諸法」を羅什が「諸法実相」と訳した


 また、単なる「諸法」を羅什が何を考えた上でわざわざ「諸法【実相】」と訳したのかは、それ自体大きな、そして、まことに重要な問題ではあるのですが、(以下略)

【『反密教学』津田真一(春秋社、2008年改訂新版/リブロポート、1987年)】

反密教学

2012-09-06

本覚論を修行論ではなく時間論として捉え直す必要がある