しかも、ただ単に翻訳家にとどまらず、彼自身がすぐれた霊的能力の持ち主であり、実践をなによりも重視する密教の導入に欠かせない逸材といってよかった。
そのドルジェタクには、しかし、闇の部分があった。彼は自分に敵対する者を、仏教における智恵の神、文殊菩薩(もんじゅぼさつ)の化身(けしん)にして冥界の王たるヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)を主導とする密教修法によって、つぎつぎに葬り去っていったのである。彼が用いた秘儀を「度脱」(ドル)という。度脱は、ある特定の人物を、それ以上の悪事を重ねる前にヴァジュラバイラヴァの秘法を駆使して呪殺し、ヴァジュラバイラヴァの本体とされる文殊菩薩が主宰する浄土(じょうど)へ送り届けるというものである。ドルジェタクは、おのれの行為を慈悲の実践にほかならないと主張した。
【『性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光』正木晃(講談社選書メチエ、2002年)】
ここに密教の暴力性がある。オウム真理教のポアと一緒だ。確かに人間を「業の当体」と見れば、悪業を積む人間の殺害は正当化が可能である。ただし法の二重性に注意する必要がある。ブッダが説いた法はダルマであるが、教団内や社会におけるルールは律法である。
戒律については思索していた時期があったが、さほど深まることはなかった。
タブー(禁忌、戒律)を共有するのが宗教で、罰を共有するのが社会。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 1月 22
つまりブッダの本領は刻々と進化する対話の精神にあったと思われる。人間を経典に束縛する姿勢は皆無であったことだろう。金科玉条とも無縁であったはずだ。戒律は共同体のルールであり、悟りの内容とは関係がない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2012, 8月 28
これが真の中道。RT @Buddha_Words: 839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011, 7月 19
これだよ、これ! RT @Buddha_Words: 231 自身を実在とみなす見解と疑いと外面的な戒律・誓いという三つの事柄が少しでも存在するならば、彼が知見を成就するとともにそれらは捨てられれてしまう(スッタニパータ)
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 13
戒律が教条と化す陥穽。http://bit.ly/bLY7UT RT @ujikenorio: みずからが思想に囚われずに思想しつづけるしかないんですよね。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 8月 15
戒律の問題はその是非にあるのではない。それは形式と内実、行為と悟り、手段と目的、組織と人間、個人と社会、法律(公共性)と権利(自由)といったテーマに帰着する。最終的には言葉が秘めている束縛性と(コミュニケーションを可能にする)自由性の問題だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 8月 9
戒律とは、戒が道徳で律は法律を意味する。戒律は戒律となった途端、決まりと化し、教条になり果てる。更に戒律は時代状況に合わせることで必ず煩瑣となってゆく。挙げ句の果てには戒律を守ることが目的と化す。戒律地獄(笑)。 RT @sakahachigaku: 僧侶が戒律を厳格に守ろうと
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 8月 8
本来の戒律はサンガ(ブッダを中心とする共同体)が社会に依存してゆく上でのモラルであったと思われる。ところが現代宗教における戒律は教団の権力機能を有しており、事実上「村の掟」と化している。