2014-12-21

密教とタントリズムに関する覚え書き

 タントリズムとは儀礼とシンボル機能を重視し、直接的に宇宙原理と自己を結びつける宗教形態で、ヒンドゥイズム興隆の時代(紀元600-1200年)にバラモン系および非バラモン系の諸宗間で花を開いた(『はじめてのインド哲学』立川武蔵、1992年)。たぶん理論に飽きたのだろう。左脳から右脳への揺り返しと見る。

 一方、密教といった場合、仏教におけるタントリズムを意味することが多い。端的にいえば、マントラ(真言・陀羅尼)-マンダラ-本仏思想-即身成仏という構図を描く。こちらもやはり右脳に傾いている。

 西洋の思想・宗教が言葉に重きを置く(「はじめに言葉ありき」新約聖書「ヨハネによる福音書」)のに対して、東洋は言葉に対して懐疑的な態度を示す。西洋だと法が律法に向かうが、東洋は歩むべき道と受け止められる。

 日本仏教は最澄によって密教化した。その意味では日本仏教というよりも日本密教と称するのが正しい。この辺りの言葉遣いを正しておかなければ日本独自の仏教文化を歴史の定位置に収めることが難しいと思う。

 同様に考えると日蓮を本仏と仰ぐ宗教は日蓮教というべきで、これまた正確を期せば日蓮密教となる。

 私が今抱いている疑問は、なにゆえ日本密教がヨガを採用しなかったのかという一点である。インド密教(主にヒンドゥー教)はヨガを徹底的に追求した。実際に悟りを開いたように見える人物も多い(『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ )。

 個人的にはバガヴァッド・ギーターニューエイジ・ムーブメントも密教であると考える。

 有り体に申せば、密教とはスピリチュアリズムである。そして【ミラクルがマジックとなる】ところに密教の落とし穴がある。

 論理(左脳)で悟ることはできない。そして悟り(右脳)を言語化することも難しい。ここに難問が潜んでいるとすれば、脊髄の活性化を目指すヨガは意外と正しい方向性を目指しているように思う。背骨で右脳と左脳はひとつになっているわけだから。

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)

『はじめてのインド哲学』立川武蔵