・日蓮とマントラ
失礼。同一人物であることに気づかなかった。ま、「それはそれ、これはこれ」ということにしておこう。発信者リスクのその二として「メッセージ量が増えるにつれて記憶があやふやになる」ことを挙げておく。ただし私は「教えを請え」とは書いたが、「ついてゆけ」とは書いていないからね(←言いわけ)。文章の巧拙や斬新なアイディアと人間性は一致するものではない。ウェブ空間は表情や声の情報を欠いているため、人物判断を誤ることが多い。メッセージが放つ匂いに鈍感な人は日常生活においても判断を誤っている可能性が高い。
ついでだから日蓮のマントラに関する私論を述べておこう。称名念仏の原理を説いたのは中国の善導(613-681年)で、それをポピュラーなマントラにしたのは鎌倉時代の法然(1133-1212年)である。文字通り人口に膾炙(かいしゃ)したわけだ。日蓮は南無妙法蓮華経を念仏ではなく題目と称した。とすると仏の名ではなく題名と考えてよい。
題名であるにもかかわらず日蓮は「文底秘沈の大法」と言い切った。よく考えてみよう。題名が大法であるはずがない。仮に法華経の文の底に沈められた何かがあるとすれば、偽書『当体義抄』で紹介されたマントラ(真言)を説いた人々も日蓮モデルでいうところの本仏となり得るだろう。
南岳大師の法華懺法に云く「南無妙法蓮華経」文、天台大師の云く「南無平等大慧一乗妙法蓮華経」文、又云く「稽首妙法蓮華経」云云、又「帰命妙法蓮華経」云云、伝教大師の最後臨終の十生願の記に云く「南無妙法蓮華経」云云、問う文証分明なり何ぞ是くの如く弘通したまわざるや、答う此れに於て二意有り一には時の至らざるが故に二には付属に非ざるが故なり、凡そ妙法の五字は末法流布の大白法なり地涌千界の大士の付属なり是の故に南岳・天台・伝教等は内に鑑みて末法の導師に之を譲りて弘通し給わざりしなり。
【創価学会版を参照した】
直前に「妙法流布の時に非ず、故に妙法の名字を替えて止観と号し一念三千・一心三観を修し給いしなり、但し此等の大師等も南無妙法蓮華経と唱うる事を自行真実の内証と思食されしなり」とあるが、悟りとは内証の次元であって、流布するしないとは一切関係がない。こうした日蓮の発想はすべてが天台ルール(五時八教=教相判釈)に基づいており、科学的な検証をすることが不可能だ。つまり日蓮モデル(理論)は天台ルールという重力の上でのみ記述が有効となるのだ。
ブッダの遺言は自帰依・法帰依であった。その直前に重要な指摘をしている。
「アーナンダよ。修行僧たちはわたくしに何を期待するのであるか? わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない。『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたくしに頼っている』とこのように思う者こそ、修行僧のつどいに関して何ごとかを語るであろう。しかし向上につとめた人は、『わたくしは修行者のなかまを導くであろう』とか、あるいは『修行僧のなかまはわたしに頼っている』とか思うことがない。向上につとめた人は修行僧のつどいに関して何を語るであろうか」
【『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1980年)】
「教師の握拳は、存在しない」――すなわちブッダは一切の秘伝を拒否したのだ。秘密を重んじるのは密教の流儀である。
日蓮のマントラは知識が広まりにくい時代(識字、印刷技術、通信技術が未発達)における手っ取り早い不安解消法の一つであったのだろう。また日蓮が終生求めた公場対決(公開法論)というデモンストレーションも極めて政治的な動きである。その意味では社会改革に傾いているのだが、社会福祉に大きな寄与をした忍性(にんしょう=良観)批判との整合性がとれない。
南伝仏教(上座部)が伝わった時点で天台ルールは崩壊したと考えるべきではないか。