「善悪の相対化」に問題があるような気がします。善は絶対的であるべきです。正義と混同してはならないでしょう。 RT @ujikenorio: しかし、それと同じような悪も自分自身に内在している(そして同じように善も)。それが高等宗教の指摘だったはず。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
交換から交感・交歓を生み出すしかありません。差異に終焉を告げるのが縁起。 RT @ujikenorio: 交換対象となった時点で、代換え可能となる。だとすれば聖なるものを剥奪することは可能にはなるけれ... http://bit.ly/9nMGNk
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
双方向でフィードバックし続けるしかありません。それこそが対話。変化が止まった時点でアウト。対話=変化。 RT @ujikenorio: 交換対象となった時点で、代換え可能となる。だとすれば聖なるものを剥奪することは可能にはなるけれども、新しい魔術を創出するという意味ではorzに。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
ここが田原坂です(笑)。脱組織の前提は全員が自立することですから。私が思案しているのは、階級という位置エネルギーが存在しない関係性です。 RT @ujikenorio: 小野さん、またしてもそれは難問... http://bit.ly/aR2eac
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
それゆえ断罪的な視点であってはいけないわけです。宗教よりも宗教性を追求すべきでしょう。 RT @ujikenorio: いやしかし、どうするか。権威の判定がすでに無力であるのは事実。一方の民意が恣意的であるとすれば……。教会史はこれで分断したと言っても過言ではありません。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
家族以外の小単位コミュニティを形成する。飽くまでも緩やかな関係性で横断自由。つまり、往来可能な道路みたいなやつ(笑)。 RT @ujikenorio: 認識論的飛躍は可能なのでしょうか。個々人としては可能だとは思うんです。しかしサンガとしては可能性の芽を摘んでしまうのが歴史の常。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14
対話が可能でさえあればいいのです。関係性を常に逆転させる視座が相対性でしょう。世界をグルグル回す(笑)。 RT @ujikenorio: 個に重点を置くとどうしても恣意的になることが否定できない。しかし全体に視座を据えてしまうと、その伸長性・飛躍への意志が潰されてしまう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 14