2014-03-09

都民を焼き尽くした東京大空襲

 あの夜にかぎって
 空襲警報が鳴らなかった
 敵が第一弾を投下して
 七分も経って
 空襲警報が鳴ったとき
 東京の下町は もう まわりが
 ぐるっと 燃え上っていた
 まず まわりを焼いて
 脱出口を全部ふさいで
 それから その中を 碁盤目に
 一つずつ 焼いていった
 1平方メートル当り
 すくなくとも3発以上
 という焼夷弾
〈みなごろしの爆撃〉
 三月十日午前零時八分から
 午前二時三七分まで
 一四九分間に
 死者8万3793名
 負傷者11万3062名
 この数字は 広島長崎を上まわる
 これでも ここを 単に〈焼け跡〉
 とよんでよいのか
 ここで死に ここで傷つき
 家を焼かれた人たちを
 ただ〈罹災者〉で 片づけてよいのか
 ここが みんなの町が
〈戦場〉だった
 こここそ 今度の戦争で
 もっとも凄惨苛烈な
〈戦場〉だった

【「戦場」 昭和43年8月/『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治〈はなもり・やすじ〉(暮しの手帖社、1971年)】

 再掲。書籍タイトルの一戔五厘は一銭五厘のこと。当時のハガキの値段である。国家は一銭五厘のハガキを送ればいくらでも兵士を召集できた。花森は横溢(おういつ)する反骨精神を「乞食旗」として表紙に掲げた。東京大空襲の直後、亀戸(かめいど)の横十間川(よこじっけんがわ)からは皇居が見えたという。



一戔五厘の旗


『見よぼくら一戔五厘の旗』花森安治