2014-06-28

「先輩からの手紙」に思うこと 6

先輩からの手紙
「先輩からの手紙」に思うこと 1
「先輩からの手紙」に思うこと 2
「先輩からの手紙」に思うこと 3
「先輩からの手紙」に思うこと 4
「先輩からの手紙」に思うこと 5
・「先輩からの手紙」に思うこと 6
「先輩からの手紙」に思うこと 7
「先輩からの手紙」に思うこと 8
「先輩からの手紙」に思うこと 9
「先輩からの手紙」に思うこと 10

「原始仏教及び仏教思想史全般を再検討して評価し直すとしたらどのように位置づけられるのか」(先輩からの手紙 5)というテーマで日本仏教はいまだ混乱の域を脱していない。やはり鎌倉時代の教祖へのこだわりを払拭できないのであろう。私の場合はクリシュナムルティを通してブッダの初期経典が読めるようになったので迷うことはなかった。

 教相判釈という天台ルールがあり、これに比叡山の密教エートスが加わることで鎌倉仏教は成立している。文脈やルールが異なるものを同列に論じても意味はないだろう。柔道と柔術は別物だし、テコンドー(松濤館空手から派生)と空手も異なる。日本の仏教界は鎌倉仏教に固執するあまり、大乗非仏説を軽んじてきた経緯がある。

 科学的・歴史的アプローチを欠いてきたツケが強い圧力となって日本仏教界にのしかかっている。佐々木閑〈ささき・しずか〉が「大乗仏教は、部派仏教の延長線上に現れた、出家者僧団の宗教であった」(『インド仏教変移論 なぜ仏教は多様化したのか』大蔵出版、2000年)と指摘しているが、いずれにせよ仏法にプラグマティズムの混入を認めるかどうかという問題であろう。

 もともと私は無名(=無署名)の小ブッダが次々と登場することで仏教思想が復興・発展したと考えてきたが、歴史の実態を見ると教団同士の抗争的色彩が強い。特に密教要素を取り入れた事実が重要で、これを私は仏教によるヒンドゥー教回帰と判断している。つまり「大衆受けする物語の創作」が仏教史の本質であるように思われてならない。

 日蓮にしても鎌倉時代という情報制約を避けることはできなかった。であればブッダに還ればいいだけのことだろう。どんなに頑張ったところで大乗思想がブッダを凌駕することはないのだから。

「裸の王様なのに、組織のシンボルとして担いでいる手前、誰もそれを指摘しない。影に回ればいろいろ言っていても、皆で虚構を作り上げていく。そして神話化し、集団として危ない橋を渡りだす」(先輩からの手紙 6)という部分については、原島嵩〈はらしま・たかし〉の『誰も書かなかった池田大作・創価学会の真実』に具体的な話が書かれている。

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原島 嵩
日新報道
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