2016-05-02

顕徳会

 こうして池田はスムーズに権力の膨大化に進んだが、彼の会長就任にまるで反対の動きがなかったわけではない。
 池田の就任二日後の昭和35年5月5日、元男子部第一部隊の隊長で、蒲田支部幹事の佐倉雅章、大野兼弘は、創価学会員30人ほどを引き抜いて会を割って出、顕徳会という分派を結成した。佐倉は32年の大阪参院補選で、2ヵ月の未決勾留人りするまで創価学会に尽くして、前述のように除名され、その後、復帰を許された会員の一人だったが、池田の会長の就任にまつわるすべてを、「きたない」として創価学会を見限ったのだという(『週刊コウロン』昭和35年7月19日号)。
 池田は佐倉宅に辻武寿、牛田寛、鈴木一弘、竜年光を向けて、彼をおどしたり、すかしたりしたが、5月11日に除名し、また日蓮正宗妙真寺にも意を通じて彼らを破門させ、運動を圧殺した。

池田大作「権力者」の構造

 更新情報を見つけた。参考までに古いログも挙げておく。

 こうした青年部池田派の行動に反旗を翻したグループがある。
 蒲田支部や大阪支部の支部幹事、男子部部隊長などが、名誉会長の第三代会長就任にまつわる全てを「汚い」として、『顕徳会』と名乗る分派を結成。この旗揚げは、名誉会長の蒲田での言動や、大阪での選挙活動、青年部池田派の秩序破壊などを踏まえてのことだった。

 対する学会中枢(池田派)は、学会除名と、宗門に働きかけて『顕徳会』の不認知・破門で抗した。正宗からの破門は、当時の信徒にとって、何よりも堪えがたい措置である。こうして造反運動はつぶれた。

会長就任劇正史? (2)

 この情報に照らせば、顕徳会は石田次男を推すグループではなく、飽くまでも「反池田」派であったと考えられる。それにしても腑に落ちないのは、渦中にいて後に離反した竜・藤原・石田がこのような全体像を語っていないことだ。私が知らないだけか?