創価学会では「仏とは生命なり」「我、地涌の菩薩なり」と二度にわたる悟達があったとしている(戸田先生の悟り)が、実際は後者の一度だけという指摘がある。
だが、当の戸田氏本人が書いた『人間革命』(妙悟空著)では、「彼(※戸田氏)は仏の三身の説を知らなかった。ただ此の経典(※無量義経の三十四の非)から仏の実体を汲(く)み取ろうとして思索に入ったのであった。次下の応身の説においては、ほぼわかるような気がしたが、法身・報身を説かれていたこの無量義経の説には、彼はほとほと当惑したのであった。思索すること数時間、彼はハタと手を打ったのであった。『仏とは生命なんだ、生命の一部の表現なんだ(後略)』」と解説している。
【戸田会長「獄中の悟達」の真相】
ただし戸田は手紙に次のように記している。
「一月十日ニ非常ナ霊感ニ打タレ、ソレカラ非常ニ丈夫ニナリ肥リ、暖カクナリ、心身ノ『タンレン』ニナリマシタ。立派ナ身体ト心トヲ持ッテ帰リマス」(昭和十九年二月八日付の夫人宛書簡、『若き日の手記・獄中記』より一部抜粋)
【断簡19 魂】
細井 vs. 池田紛争の際も創価学会の基本スタンスは変わっていない。
・「教学上の基本問題」について(6・30) 一、戸田会長の悟達・創価仏法の原点
日蓮系のタコツボ教学が好きな人は以下のページも参照せよ。
・戸田城聖の悟達と『無量義経』の「三十四の否定」(池田大作)
・戸田城聖の無量義経の悟りとは「其の身」の文字を「仏」だと変えた経典改竄
・無量義経徳行品第一
・無量義経徳行品第一 現代語訳
獄中の悟達については既に疑問を呈示した。
・戸田城聖の悟りに関する覚え書き
もっと直截(ちょくさい)に述べよう。戸田の「生命論」には悟りの輝きが見られない。実際に書いたのは石田次男である。「生命は永遠である」というだけの内容に過ぎない。
次に「我、地涌の菩薩なり」との経験がスピリチュアルなものであるのは確かだろう。仏教で説かれる悟りは四段階に分かれる(四向四果)が、獄中の悟達はどう考えても最初の預流果(よるか)にすら該当しない。一言で申せば悟りとは諸法無我の覚知である。
先日紹介した「忘れ得ぬ交流」は正真正銘の預流果である。アルボムッレ・スマナサーラは「自我が撃ち落とされる」と表現している。
会長に就任した後も戸田が「獄中の悟達」を語ることは殆どなかった。声高らかに「貧乏と病気をなくす」と宣言し、布教に邁進(まいしん)するだけだった。創価学会は悟りから離れて現世利益に傾いてゆく。
「久遠実成とは永遠論である」(久成は永遠論)との考えも誤りだ。結局、全てが自我を強化する方向性を志向している。
この批判は当然、日蓮にも向けられる。「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず」(「開目抄」)などの遺文は自我にまみれている。
今日はここまで。