・二元性を超える
@juntovictorinuu 小乗仏典によれば、ブッダの生存中に目連は撲殺されている。刺客が待ち伏せし、滅多打ちにしたとされる。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年7月31日
死は、たとえ安楽な姿であったとしても不条理がつきまとう。余命を告げられたとしても不意打ちをくらう。死は我々の目に終焉というよりも、中断として映る。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年7月31日
怪我で死ぬのと、刺殺されるのと何が異なるか? 暴力という意図は何かを奪うことを意味する。ただし、それは周囲から見た場合の話だ。物語としての復讐は可能だろうが、死んでしまった人が帰ってくることはない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年7月31日
平均寿命を過ぎて、病気で死ぬという台本に反する死を、我々は受容することができない。このため、なぜ病気になったのか? 殺されなければならなかったのか? と死(結果)の原因を探し回る。その代表が仏教の宿命とキリスト教の運命だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年7月31日
本当は違う。死を原因として、そこから自分がどう出発するかが問われているのだ。「なぜ彼は死んだのか?」ではなく、「彼の死から自分はどう生きたか?」が仏法本来の因果であろう。でも大丈夫だ。必ず皆死ぬのだから(笑)。私は6人の後輩を喪ったが、「一緒に生きて一緒に死のう」としか思わない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年7月31日
@juntovictorinuu 自我を友人に投影してはいけません。亡き友人の生命を自分の中に引き込むのです。自我の延長線上に友人を置くのではなくして、ご友人の死の延長線上に自分の生を位置させることです。因果を逆転させるのが因果倶時であり従果向因なのです。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2011年8月1日
折伏していた友人があろうことか本尊流布の前日に亡くなってしまう。しかも事件に巻き込まれて。紹介者の彼は長年に渡って懊悩(おうのう)してきた。その苦しみを推し量ることは難しい。彼は私のツイートを見て「雷が落ちた」と記した。このやり取りを経てからメールでの交流が続いた。彼はクリシュナムルティを読み、自己観察をし続けた。そして2年が経ち不思議な経験をする。
ある大学病院のロビーで車椅子の中年女性が叫び声を上げた。そばにいた医師が慌てふためく。彼は彼女を見て全てを完全に理解した。彼は彼女であった。彼はナースに向かって「筆記用具と紙を」と指示した。中年女性は震える手で「苦しい」と書いた。彼女は呼吸困難に陥っていた。彼は静かに語り続けた。彼女を落ち着かせ、2分ほど合わせるようにして呼吸を誘導した。女性は眠るように落ち着いた表情を見せた。彼は自分のなすべきことがありありとわかった。気がつくと二人を囲む職員と外来患者の多くが呆然と立ち尽くしていた。
その経験を振り返って彼は「一瞥に至った」と表現した。意識が空白となり思考は消え去った。自分まで消えた。時間も存在しなかった。ただ行為が流れていた。静謐(せいひつ)の中に慈悲があった。彼は「ありのまま」の世界を見た。
箇条書き程度の内容しか紹介していないのでわかりにくい部分もあろうかと思う。ただ、この手の話は通じる人だけに通じればよい。
尚、ツイッターでのやり取りは5年前なので現在の私の考えとは異なる。人間ってのはね、どんどん変わるもんだよ(笑)。