塚本素山
名誉会長は、戸田会長の事業・高利貸し業に従事していた時から、大変な高給取り。当時で月額20万円以上とさえいわれている。その上、当時の学会では資産家といわれた白木家との姻戚関係を持ち、さらに政商・塚本素山氏とも親しかった。
【会長就任劇正史? (2) 107】
1961年(昭和36年)、創価学会に顧問制度が創設され、法華講連合会会長(当時、初代委員長)の平沢益吉、三菱銀行員の戸田喬久の2人と共に創価学会顧問(初代)に就任する。
1969年(昭和44年)8月、藤原弘達の『創価学会を斬る』が出版されそうになると、小佐野賢治や田中角栄に、8000万円で出版を止めさせる交渉をさせた。これが世論で問題にされて以来、創価学会の活動は鈍くなった。
【Wikipedia】
昭和36年、第三代会長池田は「学会の基盤をより強固なものにする」という名目のもとに、顧問制度を創設し、この顧問に法華講連合会初代会長平択益吉(故人)、戸田城聖の遺児戸田喬久(三菱銀行勤務)、そして塚本の3人を就任させた。 事実、塚本は顧問の肩書をもって、たびたび学会本部幹部会にも出席し、「池田先生につき従って信心を」と指導した。正本堂供養にも大口で参加し、「億単位の供養者、5人のうちの1人」といわれたのである。
【池田大作が頭を下げた人(1)】
1961年に創価学会の顧問となった塚本素山(清)は日本軍が中国で略奪した財宝のうちダイヤモンドをフィリピンから日本へ運び込んだひとりだとされ、アメリカの支配層と深いところで結びついていたと信じられている。
【櫻井ジャーナル】
創価学会はなぜ塚本氏を切らなければならなかったのか。それは中国を射程に入れたからだ。(丸山実『花形記者は転んだ』)
【学会の歴史(昭和42年) (1)】