もどりますが、そうした意味で、ユニテリアンを中心としたトランセンデンタリストは「神」の名は、キリスト教会で説かれる神にのみ限定されないという発想へと昇華され、制度組織としての教会は、魂を帰って歪めてしまうから、とジャンプしてしまいます。
— 氏家法雄 (@ujikenorio) 2010, 10月 20
しかしながら、悟りのプラグマティズム&ホリスティック(全体論的)な洞察の追求がスピリチュアリズムの温床でもあるわけです。 RT @ujikenorio: もどりますが、そうした意味で、ユニテリアンを中心としたトランセン... http://bit.ly/c67Y7j
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
これが実は中々難しい問題なのだ。本地垂迹(ほんじすいじゃく)説と似た趣がある。スピリチュアリズムも同様の二重性をはらんでいる。私は日本仏教の密教性(スピリチュアリズム)には否定的だが、インディアンのスピリチュアリズムは肯定する。また、非我という訳語は超越と親和性があるように思う。我の存在を認めているためだ。個人的には無我が正しいと考えている。