2014-05-30

勝ち負けを超越した道

1月15日 すぐれた道とは

 勝ち負けを争うのではなく、勝ち負けを超越した道をさがすことが大切です。
 すぐれた道とは、それぞれが「自分の能力を発揮する」道です。それによって、争うことなく、自分に適した世界が開かれていくのです。
 他人と競争して勝ち取る気持ちでいると、自分の能力は劣化するのです。
 他人と関係なく、自分の能力を思う存分活かすことです。

【『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ(PHPハンドブック、2008年)】

 創価学会では切り文を更に短く切り詰めて「仏法は勝負」が合言葉になっている。

イズムの罪~「勝負主義」と「現証主義」について
師匠が「仏法は勝負」と言われているのに、なぜそれを否定するのか?

「夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり」(四條金吾御書/仏法王法勝負抄、告誡書、世雄御書とも)。真蹟はない(※調べるのに1時間要した)。ただし、

 山上弘道氏の論考「四條金吾領地回復を伝える諸遺文の系年再考」(興風23号P609)
「内容的には『頼基陳状』や同陳状の送り状たる『定番』250『四條金吾殿御返事』と密接に関連しており、真撰遺文として良いであろう」

1277年・建治3年 56歳:日蓮ノート

 とのこと。創価学会が誤読しているのは通解と講義の内容に差異があるためだ。

 そもそも、仏法というのは勝負を第一とし、王法というのは賞罰を本としています。故に、仏を世雄と号し、王を自在と名づけているのです。(通解)

 しかも、細かいことのようだが、仏法は勝負を“さき”とし、王法は賞罰を“本”とするという言葉の使い方にも注意しなければならない。“さき”とは、前後の“前”ではない。“本”に対するのであり、草木の梢とか葉先にあたる。根っ子が“本”である。したがって、勝負を先とすということは、勝負を何よりも優先すべきだということでなく、結果として勝負としてあらわれるということである。
 仏法の実践において大事なことは、法の正義を守り、それを全魂こめて実践しきることである。勝負にこだわり策を弄して、正義を歪めるようなことが微塵もあってはならない。この誠意の戦いが、長い展望でみたときに必ず勝利を結果することが証明されるであろう。
 王法が賞罰を“本”とするということは、真に功ある人が賞せられ、真に罪ある人が罰せられることによって、それが秩序の維持と、人民の行動を律する規範となっていくのである。つまり賞罰とは、手本であって、全ての人々の行動に対する結果ではありえない。王の権力がいかに緻密に人々の上に行きわたっていようと、全ての人の、全ての行動を網羅することは不可能である。賞せられなかった人でも、賞せられた人より功ある人もいよう。罰せられた人よりはるかに大きい罪を犯しながら、罪を免れる人もありうる。これは、全体的統括を司る王法のもつ限界ともいえよう。ともあれ、ここに、王法と仏法の根本的相違があるのである。(講義)

四条金吾殿御返事(世雄御書) 第一章 仏法と王法の相違 : 創価教学研究室(赤鬼のブログ)

 私がこの内容を鮮明に記憶しているのは、二十歳の頃に幼馴染みの先輩と1時間ほど議論をしたことがあるからだ。私は「葉先」の意味がまったく理解できなかった。「じゃあ、仏法の根本って何なの?」と何度も何度も先輩に質(ただ)した。

 もっとわかりやすい遺文を紹介しよう。

「同延暦二十一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学勤操・長耀等の十四人を召し合わせて勝負を決断す」(安国論御勘由来 文永5年)。

「抑そも俗諦・真諦之中には勝負を以て詮と為し、世間・出世とも甲乙を以て先と為すか。而るに諸経諸宗の勝劣は三国の聖人共に之を存し、両朝の群賢同じく之を知るか。法華経と大日経と天台宗と真言宗の勝劣は、月支・日本未だ之を弁ぜず。西天・東土にも明らめざる物か。所詮、天台・伝教の如き聖人公場に於て是非を決せず、明帝・桓武の如き国主、之を聞かざる故か」(大田殿許御書 文永12年)。

「而れども漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるかのゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万民にいたるまでおぼしめしをもえり」(撰時抄 建治元年)。

「抑そも日本国の主となりて、万事を心に任せ給へり。何事も両方を召し合わせてこそ勝負を決し御成敗をなす人の、いかなれば日蓮一人に限りて諸僧等に召し合わせずして大科に行はるゝやらん。是れ偏にただ事にあらず」(下山御消息 建治3年)。

「結句は勝負を決せざらむ外は此の災難止み難かるべし」(富木入道殿御返事 弘安元年)。

 以上が真蹟に書かれている「勝負」のすべての文である。日蓮が説いた勝負は法門の勝劣であり、公場対決を目指したものであったことは疑う余地がない。少なからず創価学会員の中にもきちんと理解する人物はいるようだ。

『世雄御書』:地下者覚書

 創価学会はひたすら勝負を煽り、会員を競争に駆り立てる。元々プラグマティックな行動原理が新自由主義的になったのは池田の会長勇退以降であろう。池田が再び聖教新聞紙上に現れた昭和56~57年頃から「仏法は勝負」が連呼されるようになった。

 もっともらしい顔つきで「自分に勝つこと」などという気取り屋もいるが、その実態は「選挙の勝利」にある。選挙に負けてばかりいる会長が大きな会合で土下座させられたこともある。こうした行為のどこにブッダの精神があるというのか?

 スマナサーラ長老の言葉は平易で万人が納得できる。勝負にこだわるのは諸法無我を知らないためであり、自我に執着する醜い姿だ。しかもネットでブーブーやっている創価学会員の99%は組織内の負け組で、全国制覇とは無縁な連中ばかりだ。ためしに「あなたは個人折伏を何世帯やっているんですか?」と尋ねてみるといい。

「仏法は勝負」と騙(かた)り、争いを正当化するところに創価学会の本質がある。

 仏法は勝負であるわけがない。仏法は四諦であり、苦から離れるところに目的がある。

ブッダの教え 一日一話 (PHPハンドブック)