・他人を増上慢呼ばわりする人物
・怒りを甘くみてはいけない
・セネカ「怒りを有益なものと考えるわけにはいかない」
下書きのまま放置してあったのだが推敲する時間がないためアップする。
日蓮遺文の「当(まさ)に知るべし瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者なり」(「諌暁八幡抄」真蹟曽存)に関する覚え書き。
始めにいくつか確認を。
『諫暁八幡抄』の御真蹟は、全体の約3分の1(前半部分)が身延の大火で焼けて、全体の約3分の2(後半部分)が、現在、大石寺に保管されています。
【メールマガジン「日蓮大聖人の御書を拝して」今泉寬眞】
・【検証】諫暁八幡抄に切り貼りされた竜門御書の日蓮花押
・続き
そういえば、最も身近な『蓮師真蹟に後加された異筆』は、石山の「諫暁八幡抄」でしたね。(独学徒)
【冨士教学研究会談議所】
私には「後加された異筆」であるかどうかがわからないため、一応真蹟曽存としておく。本文では直後にこう続く。
只不軽のごとく大難には値ふとも、流布せん事疑ひなかるべきに、真言・禅念仏者等の讒奏に依て無智の国主等流難をなす。此れを対治すべき氏神八幡大菩薩、彼等の大科を治せざるゆへに、日蓮の氏神を諌暁するは道理に背くべしや。尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず。
つまり日蓮の「瞋恚(しんに、しんい)」=怒りは法華経の行者を守護せぬ八幡大菩薩に向けられたものであることが明らかだ。注目すべきは不軽菩薩を引用していることで、ここから「怒り」の感情を正当化したものではないことが読み取れる。
ところが、である。創価学会では池田vs.阿部紛争以降この切り文を引っ張りだして日蓮正宗を口汚く罵り続けた。機関紙である聖教新聞には紙上座談会なるプロパガンダ記事が連載され、怒りの矛先(ほこさき)は公明党元委員長の竹入義勝氏や矢野絢也氏にまで向けられた。
・聖教新聞社殿御返事→善無畏三蔵抄
特に次期会長と目される谷川佳樹氏の発言は致命的だと思われる。
私も含めて殆どの創価学会員は気づかなかったわけだが、結局こうした言論活動を通して創価学会は暴力を容認したものと考えてよい。そもそも意図的に差別用語を盛り込んでまで相手を罵詈讒謗(ばりざんぼう)することが宗教性であるはずがない。
何度でも書くが「教義は解釈されるもの」だ。情報は受け手によって歪められる。知覚ですらそうなのだ。そして教団は自分たちに都合のよい解釈を施して信者に与える。そう。一種のエサみたいなもんだ。
瞋恚(しんに)が善悪に通ずる、というのはもちろん仏法ではない。当たり前だ、そんなことは。三木清だって同じようなことを言っている。
今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。
切に義人を思う。義人とは何か、── 怒ることを知れるものである。
【『人生論ノート』三木清(創元社、1941年/新潮文庫、1954年)】
哲学レベルでさえ、「他者を攻撃せよ」「敵を罵れ」とはいっていない。ただし執着の強い連中であれば、日蓮遺文の「責める」という語句を持ち出して怒りを正当化することは可能だろう。ま、勝手にしろ。
ブッダは怒りを否定した。筍子〈じゅんし〉ですら否定している。
快快にして亡ぶは怒ればなり。察察にして殘(そこな)うは忮(さから・逆)えばなり。(筍子)
【諸子百家争鳴】
スッタニパータは「蛇」の章から始まる。冒頭はこうだ。
1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
怒りを「蛇の毒」に喩(たと)えている。既に毒が回った連中からすれば信じ難いことだろう。日蓮正宗信徒を罵倒する創価学会員は多分こんな表情をしている(逆もまた同様)。
上は道行くパレスチナ人女性を悪罵(あくば)するイスラエルの学生で、下はエリザベス・エックフォードを罵ったヘイゼル・ブライアントの写真である。当時15歳。アメリカで黒人の登校が許された初日に、エリザベス・エックフォードは帰宅せざるを得なくなった。周りにいるのは通行人ではない。彼女を追い回す白人どもだ。
旧ブログでパレスチナの画像を紹介したところ、「残虐すぎる」という声が寄せられた。自分たちの暴力性に鈍感な連中が叫ぶ正義ほど信用ならないものもあるまい。
尚、ブッダが説いた怒りについてはアルボムッレ・スマナサーラが軽妙な語り口でわかりやすく説いている。これを読んでも目が覚めない連中は、一生毒に酔ってもらうしかない。