花巻に帰った賢治からは後日、自費出版した『春と修羅』と『注文の多い料理店』とが送られてきた。1933年(昭和8年)に37歳で没する賢治が生前に出版した著書はこの2冊だけである。
【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)以下同】
賢治はチェロを習うためだけに、新響の練習所に来たのだろうか。オーケストラの練習も貪欲に見学したのではないだろうか。もし、そのとき賢治が斎藤の姿を見ていれば、『セロ弾きのゴーシュ』に描かれた楽長のモデルが斎藤である可能性も出てくる。
オーケストラでヴァイオリンを弾いてきた川原日出はこう語る。 「『セロ弾きのゴーシュ』を読んだとき、楽長のモデルは斎藤さんだと思いました。彼の指揮ぶりを見ていたら誰だって絶対にそう思う。日本人の指揮者でああいう人は彼以外にはいないんです」 賢治は『セロ弾きのゴーシュ』には愛着を示して推敲を重ね、最終稿を仕上げたのは没する年の病床でであった。
何と斎藤秀雄と宮沢賢治には接点があった。人と人とのつながりが描く稜線の不思議さに心が震える。
(※左が単行本、右が文庫本)
・宮沢賢治