2021-02-10

生命エネルギー仮説

 ・生命エネルギー仮説

『悩む力 べてるの家の人びと』斉藤道雄

 精神科の臨床にたずさわって40年余、さまざまな人生に関わっているうちに、私は人のいのちを次のように考えるようになった。
 人のいのちは、身体的生命、精神的生命、社会的生命、宗教的生命の四要素の統合体としてある。前三者は動物一般に共通してある要素だが、宗教的生命は人間独自のものである。
 人の生命現象は生命エネルギーによって営まれるものであり、エネルギー恒存(こうぞん)の法則に従う。
 それは臨死状態にいる人の傍にいて、つまり慢性自殺といわれるアルコール依存症患者の身体死・精神死に瀕(ひん)する状態に関わって、また家族からも所属する集団からも存在を疎(うと)んぜられている社会死の場面を見つめて、さらにはそれらの絶望的な状況から復活再生を遂げる回心の劇的な瞬間に立ち会って得られた、実体験の結果としての生命論なのである。
 私はこれを、私の「生命エネルギー仮説」と名づけるのであるが、将来は仮説ではなく一つの理論として認められることを期待している。
 W・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の副題が「人間性の研究」であることに私は深く共感するのであるが、私のいう宗教性は人間性を構成する基本的要素としてあるものであり、具体的な宗教生活、宗教活動、宗教行事への参加の有無などは問題にならない。無神論者の心性にもこの宗教性が内在するというこであり、人間であることの証(あか)しとしてこの宗教性があるということである。
 ズンニィニィ教授(ミラノ聖心大)がかつて述べられたように、人はホモ・レリギオースス(宗教性においてあるヒト)なのである、と思う。

【『愛に癒されて人は生きる 精神科医が見つめた人間の心の復元力』村田忠良〈むらた・ただよし〉(海竜社、2000年)】

『べてるの家の本 和解の時代(とき)』(べてるの家の本制作委員会編)の帯文(おびぶん)で著者の名前を知った。文章に独特の冴えがある。タイトルからもわかるように村田はクリスチャン(カトリック)である。私は『折伏教典』を読んで以来キリスト教が大嫌いである。40歳を過ぎた頃から近代という概念に興味が湧き、世界基準の常識としてキリスト教を学ぶ必要に迫られた。

 森島三部作(『科学と宗教との闘争』『思想の自由の歴史』『魔女狩り』)を皮切りに、ポール・ヴェーヌ著『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』を経て、岡崎勝世〈おかざき・かつよ〉の『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』『科学vs.キリスト教 世界史の転換』を辿り、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(ラス・カサス)、『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』(猿谷要〈さるや・かなめ〉)に至った。

 とりわけ私のキリスト教理解を深めたのはルドルフ・カール・ブルトマン著『イエス』でドグマチズム(教条主義)の合理性が腑に落ちた。当然ではあるがこれらの本を自分なりに読めるようになるまで欠くことのできない紆余曲折があった。こうして何となくではあるが「近代」の放つ体臭に気づくと、『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(小室直樹)の達観がやっと理解できるのである。

 いくら蛇蝎(だかつ)のようにキリスト教を嫌ったところで、近代の扉を開いたのが西欧である事実に変わりはない。ミラクル・ピースと言われる日本の江戸時代は寺子屋を通して国民の知的レベルを向上させた(※江戸の識字率は世界一だった)がリベラルアーツ(知の総合体系)を生むには至らなかった。有色人種国家で唯一近代化に成功した日本ではあるが、新たな世界基準を打ち出せない原因もここにある。

 私はまた精神科医も嫌いだ。否、精神医学を科学と認めることに限りない困難を感じる。これまたいくらでも書籍を挙げることができるが別の機会に譲る。日本の精神分析は精神障害の診断と統計マニュアル第5版(DSM-5、2013年)に基づいて行われているが、DSM-IV(1994年)の編集委員長を務めたアレン・フランセスが製薬会社の利益誘導を図る基準となっていると猛烈な批判を加えている(『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』)。

 それでも尚、本書に脈打つ誠実な人間性に私の心は魅了される。

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