2022-03-14

自由と不自由

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。
 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。
 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 不思議なほど「虚実」が見えてくる。くっきりと輪郭が浮かび上がる。ともすると「欲望を満たす」ことが自由であるとの風潮がある。100円ショップがこれほど社会に根を下ろしたのは、価格の安さもさることながら、不況下で賃金が停滞する中で「選択肢の広さ」を提供したところにある。ま、駄菓子屋の雑貨版と考えてよかろう。

 政治家は総理大臣を目指し、官僚は事務次官を望む。俳優は主役を欲し、タレントは冠番組を希(こいねが)う。

 話は変わるが100%といわれるプラシーボ効果がある。「高価な薬」は必ず効くのだ。たとえそれが偽薬であったとしても、だ。情報は脳を束縛する。あらゆる薬には一定のプラシーボ効果が認められるが、我々の脳は薬効よりも金銭的な価値を重んじることが明らかである。

 資本主義経済は人々に富の獲得競争を強いる。地位に付随するのは収入である。そして権力は他人を顎(あご)で動かし、額(ぬか)づかせる。他人から頭を下げられると喜ぶ習性はたぶん群れを形成した時代からあったことだろう。

 クリシュナムルティが指摘するのは欲望の危うさであり、彼は驚くべきことに努力や理想まで否定している。何かになろうとする時、現在の自分は卑小な存在と化す。なれない=不幸、なる=幸福という単純な図式が人生の道幅を狭める。他人を見つめる眼差しも成功を基準としたものにならざるを得ない。

 妙の三義とは「開」「具足・円満」「蘇生」である。これを自由の定義と考えてもいいのではないか。

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