・「先輩からの手紙」に思うこと 1
・「先輩からの手紙」に思うこと 2
・「先輩からの手紙」に思うこと 3
・「先輩からの手紙」に思うこと 4
・「先輩からの手紙」に思うこと 5
・「先輩からの手紙」に思うこと 6
・「先輩からの手紙」に思うこと 7
・「先輩からの手紙」に思うこと 8
・「先輩からの手紙」に思うこと 9
・「先輩からの手紙」に思うこと 10(最終回)
「人間の頭の持つバーチャル性というやっかいな能力」(先輩からの手紙 12)に関する研究を少し紹介しよう。
科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。
【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)】
これはヒルの研究から判明した。我々が意思――あるいは意志――と認識するものは神経細胞の電気的な「ゆらぎ」でしかない。
人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説だ。このシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。
この見解は、非常に意味深長な事柄を述べている。すなわち、人が直接体験するのは錯覚であり、錯覚は解釈されたデータをまるで生データであるかのように示す、というのだ。この錯覚こそが意識の核であり、解釈され、意味のある形で経験される世界だ。
【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之訳(紀伊國屋書店、2002年)】
ベンジャミン・リベットの研究によって意識が発生する0.5秒前から脳が作動(準備電位が観測される)していることが既にわかっている。トール・ノーレットランダーシュは我々の知覚情報を「利用者の錯覚(ユーザーイリュージョン)」と名づけた。
動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。
【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)】
この確証バイアスこそが宗教の原型と考えてよかろう。ヒトの脳は科学的・数学的・合理的な因果よりも、物語としての因果を好む傾向が強い。
心脳問題は意識の研究や認知科学によってかなり明らかになりつつある。功徳や罰などは確証バイアスの典型である。いったん物語に支配された脳は別の可能性を考えようともしなくなる。
権力奪取とか、勢力拡大などというのは、考えてみれば幼稚な発想で、(中略)対立や勢力争いをしていたのでは修羅畜生の境涯でしかあり得ません。(同ページ)
だがそれを広宣流布として門下に命じたのは日蓮その人であった。ただし印刷や通信がなかった時代ゆえ、日蓮の本意がコマーシャリズムやプロパガンダにあったと断定することはできない。
公明党が政権与党入りしても王仏冥合は実現されなかった。この事実を直視しない創価学会員が多すぎやしないか?
「宮田論文に関する覚え書き」以来の長文となったが、一気に書かなかったことを後悔している。我が故郷である北海道にこれほどの人物がいたことが誇らしい。北海道だと通教の石川さん(故人)やドクター部の萇崎(へござき)さんなどがユニークな幹部として思い浮かぶが、この先輩は別格である。ただし十数年前であれば私だって彼の話を理解できなかったことだろう。理解は一瞬のことであるが、そこに至るまでの時間が意外とかかるものだ。
自分自身でつかんだ疑問を手放さないで深めてゆくことが大切だ。私の場合、自由を追求していって「師匠からの自由」「思想からの自由」にまで行き着いた。それから間もなくクリシュナムルティと出会った。グルイズムやイデオロギーが腑に落ちると二つの問題は呆気なく解決した。
全創価学会員の遥か先を往く先輩は既に亡くなった。一度も会うことのなかった人物だが、私の人生に鮮やかな輪郭を描いて深い影を落とす不思議な存在となった。えぞしろくま氏に深く感謝申し上げます。
尚、この先輩の遺稿集(非売品)が作られたようで、えぞしろくま氏のブログで紹介されている。
・先輩からの手紙