しかしながら、悟りのプラグマティズム&ホリスティック(全体論的)な洞察の追求がスピリチュアリズムの温床でもあるわけです。 RT @ujikenorio: もどりますが、そうした意味で、ユニテリアンを中心としたトランセン... http://bit.ly/c67Y7j
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
http://tinymsg.appspot.com/Vmi
日蓮系も同様。悪の本質がデヴァイド(割り)なら、それを実行可能にしているのは正義かも。 RT @ujikenorio: (全てが全てそうではありませんが)プロテスタントの歴史というのは、分派の歴史と言い換えても過言ではありませんから…
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
伝えられた瞬間、死んだ言葉は「情報」に変質する。 RT @ujikenorio: 簡略化してしまうと、今の体系・システムというものが、ダイレクトに誕生時の姿そのままではないという事実です(逆説的に言えば、だからカトリックは、「伝承」を大切にします)。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
とすれば、社会が複雑化するたびに教義を更新・拡張する必要が生じる。つまり教義は「後付け」となる。 RT @ujikenorio: キリスト教を例に取ってみると、イエスそのものの発想=現在の公定教義かと問うた場合、イエスとは十全に答えられないという問題です。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
教義は社会に「合わせて」広がり、やがて魂を失い儀礼と化す。人間と言葉の形骸化。 RT @ujikenorio: 仏教でいえば、原始仏教で肉声がかすかに残る釈尊が、葬送儀礼を大切にしようとはいっていなけれども、現在の公定教義と実践では「大切に」ということになっているような問題です。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
言葉の限界。 RT @ujikenorio: ぢゃあ、どれが原点か?などと七面倒になってしまうと、デリダが批判するような音声中心主義、プラトニズム的イデア論に、つまり、最初の声=イデア、後から整理された教義=イデアの劣化したコピー、という認識になるので、その遡上というのは難しい
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
悟りが論へと堕落。左翼的理論武装。 RT @ujikenorio: まあ、(創唱宗教においては)誕生時の教説=現在の教説と同じというものではないのが事実というところです。創作とはいいませんが、大乗仏教を加上説@富永仲基と批判した問題はあらゆる宗教において避けがたいというものです。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
思想より帰属・所属が優先される現実。やはり集団の問題に。 RT @ujikenorio: しかし、「善きサマリア人の喩え」が聖書に記されているにもかかわらず…本年の9.11の米国の過激な一派がコーランを焼き払おうとしたようなことを眺めるとorzとなってしまいます。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
本来の「教え」は単純であったはず。理論化・複雑化するほど排除性が高まる。経典は言葉でありながら言葉に非ず。言語道断・心行所滅。 RT @ujikenorio: 原点に返るとか、原点を復活させるというのは現実には困難です。その... http://bit.ly/aXwDaU
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22
ナイス! RT @ujikenorio: だから、使い古されたフレーズ、言い回し、説教、指導etc--というものが、根拠があるのかどうか、それは常に省察されてしかるべきかと思います…中には広告代理店が製作したようなスローガンでおわってしまっているものもあるかもしれません。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 22