現実問題としてアウトサイドの視点から常に集団を再構築してゆくことは可能か? RT @ujikenorio: これが本来の神学者、(回教)法学者、そして宗学者の存在意義だと思います。 RT @fuitsuono: それを行うとすれば、いったん思想から離れて自由になる必要が生じます。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23
応用が原点からの距離を示すなら、信仰者は必然的に社会の隅へ歩みを進めるであろう。それがマザーだったのか。しかしながら、見捨てられた100人の人々に対して、救済不能な現実を知りながら私はそこへ足を運べるか?(続く) RT @ujikenorio: どれが原点か?
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23
社会から落伍した人、あるいは集団から疎外された人、例えば学校をドロップアウトした学生、勤務態度に問題があってクビになった同僚、教団から破門された信者、地域から去っていった隣人、こうした人々と交流し続けることが実際にあり得るだろうか?(続く)
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23
そう考えると、社会や集団は排除することで求心性を維持しているような節が窺える。組織は内外に立て分け、人間を分断するのだ。(続く)
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23
ルネサンスの復興が原点回帰という意味であるなら、常に原点を確認しながら最も原点の座標から遠い位置に身を置くことが求められよう。マザー・テレサはインドの見捨てられた人々を目の当たりにして、神が最初から不在であった事実を悟ったのだろう。原点消失。だが彼女を笑うことは誰にもできない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23
本来であれば人間がリライトされるべきであるにもかかわらず、現実には教義がリライトされるという根本的な矛盾。 RT @ujikenorio: ぢゃあ、どれが原点か?
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 10月 23