・意識とは
・『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
意識は人間にとって最も身近であると同時に、不可解なまでに捕らえどころのない存在でもある。意識について他人と語り合うことはできるが、意識はその根本において、あくまで主観的であり、本人だけが内側からしか経験できない。意識とは、経験していることを経験する行為、認識していることを認識する行為、感知していることを感知する行為だ。だが、経験を経験しているのは、いったい何なのか。経験することの経験を【外から】観察し、「意識は実際にはどれだけ観察しているのだろう」と問うたらどうなるのか。
近年、意識という現象の科学的研究を通して明らかになってきたのだが、人間は意識的に知覚するよりもずっと多くを経験している。人は、意識が考えているよりもはるかに多くの影響を、周りの世界やお互いと及ぼし合っている。意識は自分が行動を制御していると感じているが、じつはそれは錯覚にすぎないのだ。西洋文化ではこれまで、人間生活の中で意識は多大な役割を担うと思われがちだったが、じつはその役割は、ずっと小さなものだった。(中略)
〈私〉の時代の幕切れは近い。
【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)】
冒頭の一文である。これを「意識のハード・プロブレム」という。1990年代からパーソナルコンピュータの実用化で科学は長足の進歩を遂げた。宗教はというといまだにテキストを入力しているだけだ。科学は観察し測定し、仮説を立て、モデルを構築し、法則を見出す。研究は公開され、多くの科学者が検証し、更に発展させる。量子力学の歴史を少し知れば、数多くの科学者が偉大なオーケストラのようにハーモニーを奏でていることがわかる。そこにあるのは紛(まが)うことなき人類の叡智である。一方の宗教はまず協力することがない。彼らの流儀は反目である。しかも一方的に「法則」を騙(かた)りながらその実、法律レベルの決め事を教条と仰ぐだけだ。宗教よ、汝の名はドグマなり。
「認識していることを認識する行為」をメタ認知という。「メタ」には、「高次の」「超」という意味があるが、例えば自分自身を天井から見下ろすような感覚である。高次とは抽象性である。視点をグーグルアースのようにどんどん高くしてゆくことを瞑想と名づける。
十界とは瞬間瞬間の生命の実相を説いたものだが、仏教徒でこれをきちんと理解している者を見たことがない。創価学会だと戸田城聖だけだろう。水滸会の読書会で片鱗が窺える。
例えば職場で上司から叱責を受けたとしよう。「なんて嫌な上司なのだろう」「早く終わってくれないかな」「どうせ、私は駄目な人間なんだ」「俺なりに頑張ったことは一切評価しないわけだな」「お前の秘密をバラしてやろうか?」「今度闇討ちしてやろうかな」などの反応が予想できる。実際は、上司もまた上の管理職から怒鳴られていた、上司は家庭内に様々な問題を抱えてストレスまみれになっていた、上司の脳には腫瘍ができていて感情をコントロールすることが困難になりつつあった、上司は起死回生を賭けた投資で損が膨らんでいた、などといったケースが想像し得る。
一つの事実から様々な物語が生まれる。脳は時間の矢に基づいて因果を紡(つむ)ぐ。この妄想機能こそが人類の業と言ってよい。
「上司は今、修羅界である」「自分は三悪道をグルグル回っている」と見なすのが十界論である。映画や小説の登場人物を見つめるのと全く同じ視点である。おわかりだろうか? 妄想とは「自我を巡る物語」なのだ。
では、エベレストの高さ(8848m)から自分を見下ろせばどうなるのか? ま、航空機の高度と変わらない(1万m)。「私」は点ほどの大きさにもならない。その高みからすれば人類すら点以下の存在である。すなわち「私」は消える。「私」が消えれば妄想が生まれる余地はない。
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