われわれは形式上は釈尊がその晩年にインドの霊鷲山(りょうじゅせん)において『法華経』を説いたとしているが、実際には近代の文献学的研究や調査から、この経典が釈尊の死後約700年ごろ、おそらくは紀元2世紀の終わりごろに現在の形に編纂され、書きとめられ、流布したことがわかっている。
【『法華経の省察 行動の扉をひらく』ティク・ナット・ハン:藤田一照〈ふじた・いっしょう〉訳(春秋社、2011年)】
少し前に知人の見舞いに行った。隣のベッドにいたオバアサンが経典を持っていた。すかさず声を掛けて見せてもらったところ平楽寺書店版の法華経であった。かなり高齢の方で文字を読むのも難儀していることが見てとれた。「私が読みましょうか?」と言うとニッコリ笑って会釈をされた。病室が閑散としていたこともあって、そこそこ本気で読んだ。
私の読み方はかなり独特で気魄を前面に押し出す。和泉ミヨ(和泉覚夫人)さんの読み方に小節(こぶし)をきかせたような代物だ。前にも御書を読んだエピソードを紹介した(御書)。振り仮名が創価学会版と異なり少々苦労したが一気に読み上げた。
オバアサンは涙を流して喜んでくれた。「胸の中に染み込んできた」「聞いていて手足が軽くなった」とまで語った。帰り際に握手をすると1分以上離さず喋り続けた。
法華経はブッダが説いたものではない。私は過去に創価学会版を一度通読したのみであるが、今後読むことはないだろう。ブッダの教えから派生した物語や詩と捉えることも可能だろうが、悟性に乏しいと感じる。
法華経の壮大なストーリーを称賛する人々は多いが、法華経からさかのぼってブッダの教えに迫った人を見た例(ためし)がない。ティク・ナット・ハンの試みは稀有と言っていいだろう。たぶん友岡さんも尊敬していた人物だ。「社会参画仏教」(Engaged Buddhism)の命名者である。
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