2014-07-03

呪いをこめて見ることを望むという

『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

 ・呪いをこめて見ることを望むという

『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 白川静によれば「祝」の字は後世に生まれたもので、もともと「呪」には「のろう」と「いわう」の二義があったという。3300年前に誕生した漢字そのものが呪的儀礼を形象化したものとされる。その頃、商の国では戦争の最前線に100人規模の巫女(みこ)を送り込んだ。彼女たちは目に隈取(くまど)りを施し、呪力を強めることで敵を威嚇した。

 文字のない時代における言葉はさほど重みがなかったことだろう。文字なくして概念の構築は難しい。自分の幼児期を振り返れば明らかだ。感情的な記憶はあっても思索の痕跡はない。

 望みは未来へ向けられるものだ。希望・願望といえば聞こえはいいが欲望の望とも重なる。希望を抱く人は現在に不足を感じる人であろう。その不足を埋めるために明日への望みを抱くのだ。

 仏教では将来(=まさにきたる)の語は使わない。飽くまでも未来(=いまだきたらず)である。将来を重んじれば早逝は不幸としか捉えることができない。人生とは現在がすべてだ。否、現在以外に人生は存在しない。満たされぬ欲望を希望に託すよりも、現在を十全に生きる人が仏弟子といえよう。