2014-07-12

「先輩からの手紙」に思うこと 7

先輩からの手紙
「先輩からの手紙」に思うこと 1
「先輩からの手紙」に思うこと 2
「先輩からの手紙」に思うこと 3
「先輩からの手紙」に思うこと 4
「先輩からの手紙」に思うこと 5
「先輩からの手紙」に思うこと 6
・「先輩からの手紙」に思うこと 7
「先輩からの手紙」に思うこと 8
「先輩からの手紙」に思うこと 9
「先輩からの手紙」に思うこと 10

 ハッキリと言います。
 現在の学会活動をやめろとまでは言いませんが、別にしてもしなくても、罰もなければ、御利益があるのでもありません。
 福運が消えるわけでも、福運がついてくるのでもありません。
 そのような自分の生命外から何か幸運や不運がやってくると考えるのは、あまりにも人生に対する姿勢が消極的、受動的であると言わざるを得ません。

先輩からの手紙 7

 私は「やめろ」と言っている。手紙が書かれた1998年から10年後には学会組織の凋落が歴然となった。私はインターネット上だけの関係において最も活動家を育てた一人であり、最も多くの人々に活動をやめさせた一人でもある。創価学会には向き不向きがあって、頑張らせた方がよい人よりも頑張るだけ無駄というタイプの人々が圧倒的に多い。前にも書いたが私のようなレベルからしても、人材は100人に一人いるかいないかである。訓練だけではどうにもならない世界だ。もって生まれた資質や性分が大きい。ま、簡単にいうと「誰を見て」「何に反応したか」で決まってしまうのだ。

 功徳というエサに釣られ、罰という脅しに屈する会員が殆どを占め、判断能力が奪われている。表看板では「正義」を謳っているが、その裏にあるのは自らの欲望実現にすぎない。祈りが欲望を強化し、悟りからどんどん離れてゆく。

 悪人と対峙し得る人、喧嘩のできる者でなければ学会活動をすべきではない。自分自身の人生である。何かのために生きたり、誰かのために生きるのはやめるべきだろう。ただ自分に嘘をつくことなく、偽りなく生きればよい。