そしてナポレオン。彼の場合、「絵を買う人」というよりむしろ、戦争しては「絵を奪う人」というべきかもしれない。ルーヴル美術館には、未(いま)だナポレオンの戦利品たる名画の数々が並んでいる。とはいえ、彼だとて絵は注文した。もっぱら自分の肖像画だが。
幸いにしてダヴィッドという優れた画家が同時代人だった。つまりこういうことだ――いかに傑出した君主であろうと、天才画家がそのとき存在していなければ、大衆の心にビジュアルとして刻印されるのは難しい。
先述したエカテリーナ大帝にせよフリードリヒ大王にせよ、その強烈なオーラや個性を放つ肖像画を後世に遺(のこ)せてはいない。その意味でもナポレオンはラッキーだったのだ。
彼はダヴィッドに言ったという。「顔など似ていなくていい、偉大さを伝えよ」
それは「成り上がり」ゆえに支持基盤が弱く、大衆を味方につかねばならない皇帝が、プロパガンダとしての肖像画の重要性を熟知していたからこそだ。ダヴィッドがその期待に十分に応え、英雄としてのイメージを決定づけたことは、「アルプス越えのナポレオン」が証明している。ナポレオンといえば、多くの人がこのドラマティックな馬上の勇姿を思い浮かべるほどのインパクトだ。
本作はヴァージョンも含めて、何と5点も制作されている(よく気に入ったのだろう)。それぞれマントや馬の色が違うだけで、あとはほとんど同じ。見分けはつけにくい。絵画は1点物だから価値があると信じていた人には少しショックかもしれない。
【「絵を買う人々」中野京子/日本経済新聞 2014年5月8日夕刊】
・ジャック=ルイ・ダヴィッド サン・ベルナール峠を越えるナポレオン・ボナパルト
実際の峠越えはロバで行われた。創価学会が好む絵はプロパガンダであった。英雄主義には欺瞞がつきものだ。話は替わるが『新・人間革命』が連載されて少し経った頃、「挿し絵がどんどん気持ち悪くなっている」という声を聞いた。「北朝鮮っぽい」とも。言われた時は「フム、そうか」くらいしか思わなかったのだが、不要な美化をそれとなく感じる会員は確かに存在した。池田の肖像写真が初めて販売されたのは昭和58年だったと記憶する。私は「おいおい、売り物にするのかよ」と思い、購入しなかった。もちろん額縁用のものだ。肖像画やポートレイト(肖像写真)は偶像である。アイドルは必ず形となってファンを虜(とりこ)にする。であるがゆえにアイドル(偶像)と称するのだ。ナポレオンが20世紀に生きていればこんな絵になっていた可能性もある(笑)。
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— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 7月 20
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