・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『奇貨居くべし』宮城谷昌光
・趙高
呼吸の困難をおぼえた始皇帝は、中車府令(ちゅうしゃふれい)の趙高を呼び、
「璽書(じしょ)を為(つく)れ」
と、命じた。中車府令がほかの者であったら、歴史はちがったものになっていたであろう。項羽と劉邦、それに田横も、歴史上の人物にはなりえなかったにちがいない。
【『香乱記』(一)宮城谷昌光(新潮文庫、2006年/毎日新聞社、2004年)】
「中車府令」とは宮中の車馬を管理する長官である。始皇帝の行く先を把握するわけだから側近中の側近といってよい。天子の印(玉璽)が押してある文書を「璽書」というが、ここでは遺書を意味する。
長子の扶蘇(ふそ)に葬礼を命じる内容であった。そのまま遺書が渡されれば、必然的に扶蘇が皇帝の座を継ぐこととなる。趙高(ちょうこう)は恐るべき陰謀を目論んだ。何と始皇帝の遺書を改竄し、末子の胡亥(こがい)を後継者として担ぎ上げる。丞相の李斯(りし)もこれに加担せざるを得なくなる。
歴史の歯車は動きを変え、楚漢戦争に向かって回転を始める。
日蓮遺文にも「趙高が国をとりし、王莽(おうもう)が位をうばいしがごとく」とある。
現在の創価学会でいえば、長谷川・八尋あたりが趙高になる可能性が高いと思われる。