1960年3月30日 戸田の三回忌法要を前に、戸田会長から「池田大作に創価学会を継がせるように」との遺言があったと主張。池田を支持する青年部を中心に池田会長就任に反対する幹部や戸田の遺言に懐疑的な幹部を数の力で圧倒。
1960年6月 理事で参議院議員の石田次男を会長に推す幹部が、学会内に別組織「顕徳会」を立ち上げた。顕徳会の意志に池田会長就任に反対する幹部や戸田の遺言に懐疑的な幹部など約200名ほどが賛同。また約15万世帯の会員が池田会長就任に反発し創価学会を脱会した。
【池田大作→会長就任以降】
・池石戦争
創価学会の副会長クラスでも「一部幹部の間で石田次男を会長に推す声があった」という程度の認識しかない。私もそうだった。石田が戸田門下生の表看板であったのは確かで、学会認定の歴史を辿ってもわかる。権力を巡る政争が仏教の歴史なのかもしれない。
池田の後継神話は既に龍年光の証言(第三代会長の指名はなかった)で崩壊している。オフレコ指導で散々繰り返されてきた戸田とのエピソードも創作の可能性が高い。主要な牧口門下が死去した現在では確認することも難しい。清濁併せ呑んだ彼らが守ってきたものは何だったのか。信仰よりも組織を重んじた瞬間から全てはプロパガンダと化す。
ひとつ解せないのは、それでもなお石田が創価学会にとどまった事実である。彼が学会と袂を分かつのは1978-79年(昭和53-54年)頃だと記憶する。
【付記】Wikipediaには「創価学会への入会後から1年にも満たない時期に、当時の創価学会会長の戸田城聖から教学面の理解の高さを買われ、『折伏教典』の第一章「生命論」の執筆を命じられた」(石田次男→人物)とある。