昨年、32歳の後輩を亡くした。転移性の癌が発見された時、医師は余命半年と告げた。だが彼は2年半生きた。訃報を伝えてくれた後輩に「仕方がないんだ」と私は言った。翌日、彼の実家を訪ね、「残念です」と私が言うなり、お父さんは「しようがないんだ」と言った。(続く)
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 11月 2
この話を妻にしたところ、「なぜ、そんなふうに達観できるの?」と訊いてきた。私は思わず「最初から諦めているからだ」と答えた。この瞬間、断念の意味を悟った。だから自分の父親が倒れた時も敢えて長命を祈ることはなかった。ひたすら父子と生まれた意味を思った。(続く)
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 11月 2
生きる気力を奪うのが病魔の病魔たる所以であろう。後輩も私の父も亡くなった。だが決して病魔に敗れた姿ではなかった。壮絶な格闘を終えた二人は死して尚、微笑を湛えていた。人は死んでも笑うことができるのだ。死は一定(いちじょう)である。誰も避けられない。問題は早い遅いではなく死に方だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 11月 2
我々は必ず死ぬ。人生を明らかに見つめれば断念せざるを得ない。死という限界性を深く自覚した時、生は無限の輝きを放ち始める。必死や真剣という言葉もそれを示唆している。だからこそ人の死に遭遇すると厳粛な気持ちになるのだろう。真剣を抜け。斬るか斬られるかという緊張感の中で十全に生きよ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2010, 11月 2