2015-04-22

宗教的延期

 個人の再生は未来においてではなく、【いま】起こらなけれなりません。もし自分の再生を明日に延期すれば、皆さんは混乱を招き、暗黒の波に呑まれてしまうのです。再生は、明日ではなく【いま】なのです。なぜなら、理解はいまの瞬間にあるからです。皆さんがいま理解しないのは、自分の精神・心、全注意を、自分が理解したいと思っているものに向けないからです。もしみなさんが自分の精神・心を理解することに傾ければ、皆さんは理解力を持つことでしょう。もし自分の精神・心を傾けて暴力の原因を見い出すようにし、充分にそれに気づけば、皆さんはいま非暴力的になることでしょう。が、不幸にして、皆さんは自分の精神を宗教的延期や社会道徳によってあまりにも条件づけてきたので、皆さんはそれを直接見ることができなくなっているのです――そしてそれが私たちの困難なのです。

【『自由とは何か』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1994年)】

 一生成仏とは宗教的延期である。つまりキリスト教における「約束された天国」と変わりがない。1948年3月7日にボンベイで行われた講話である。「宗教的延期」という言葉は事前に考えたものではなく、ジャズのアドリブみたいなものだろう。聴衆との直接交流から期せずして生まれた言葉と察する。絶妙な表現だ。

「一生成仏抄」を疑う

 日蓮遺文の真蹟に「一生成仏」との語はない。「一生」は35ヶ所ある。主立ったものを以下に列挙する。

「幸なるかな、一生之内に無始の謗法を消滅せんことよ。悦ばしいかな、未だ見聞せざる教主釈尊に侍へ奉らんことよ」

「乞ひ願はくは一切の学者等、人を捨て法に附け。一生を空しくすること勿れ」

「但大小の賢位のみに入って聖位にはのぼらずして、法華経に来て始めて仏種を心田に下して、一生に初地・初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり」

「勝れたる経を供養する施主、一生に仏位に入らざらんや」

「一生はゆめの上、明日をご(期)せず。いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給ふべからず」

「我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」

 クリシュナムルティが説く「いま」と響き合うのは最後の二つだけだ。

 宗教的延期とは何か? ま、一種の先物取引だ。将来の価格が上がることを信じて対価を支払うわけだ。宗教における対価とは奉仕や修行である。もちろん寄付も含まれる。「これ」をやれば、「あれ」がもらえる寸法だ。

 日蓮の言葉に閃きは感じられない。特に「いかなる乞食にはなるとも、法華経にきずをつけ給ふべからず」などはいかにも鎌倉時代といった雰囲気が漂う。法華経という経典が主で人間が従になっている。創価学会では法華経を本尊と解釈しているが五十歩百歩の違いである。

 宗教的延期を見抜け。そして自分自身に対して一切の先延ばしをするな。