2013-04-11

理論は人格と必ずしも分離していない

 宮田幸一のホームページが更新された。せっかくなんで少し覚え書きを残しておく。

研究雑感 東洋哲学研究所所報第3号 1989

 さて哲学においては真理の探求という大義名分のもとで、いかなる哲学者の学説に対しても、その学説が真理である根拠とは何かと問うことが許されている。プラトンは師ソクラテスの説の不十分性を自覚していたから、イデア論を構想したし、アリストテレスはまた師プラトンのイデア論の不十分性を、様々な分析において示している。理論はそれを主張した哲学者の人格的評価とは別の運命をたどることになる。ところが哲学と同じような人間の営みの一種である宗教の場合は事情が多少異なっているように理解されているようだ。つまり理論は人格と必ずしも分離していないのである。それは宗教が人格的救済を存在理由の一つにしており、特に創唱宗教の場合は、創唱者の思想は創唱者自身の人格において実現され、その人格がモデルになるからであろう。したがって創唱宗教の場合は創唱者の思想は絶対視され、その思想にいかなる根拠があるのかと問うことは、その創唱者に由来する教団においては、創唱者への人格的冒涜であると見なされやすい。

 ま、人本尊の問題といってよい。本尊の意味も改定する必要があろう。「【私が】根本的に尊敬する対象」で構わない。例えば私はクリシュナムルティを尊敬している。ブッダと同じレベルの尊敬だ。通常であれば、まず最初にクリシュナムルティという人格への傾倒がある。次に彼を彼たらしめている思想を私が生きるために理論化を試みる。これが人法の基本的な考えである。

 極端に抽象化してしまえば人も法も情報である。人とナリ、あるいは思想を第三者に伝えるものは「言葉」である。とすれば人も法も言葉であり、これすなわち情報である。

 人も法も【解釈された情報】であり、あなたが考える日蓮と私が考える日蓮は別人である。そもそも共通する一つの世界が目の前にあるわけではない。世界とは【私が】五官によって感受し得る情報にすぎないからだ。つまり世界といっても解釈された情報であり、もっといえば我々が生きるのは「【私による】解釈世界」なのだ。

 我々はみな、ひとりひとりが、自分が自分のあり方として想像したもの、そして相手から想像されたものとして存在している。

【『ジェノサイドの丘 ルワンダ虐殺の隠された真実』フィリップ・ゴーレイヴィッチ:柳下毅一郎〈やなした・きいちろう〉訳(WAVE出版、2003年/新装版、2011年)】

 創価学会第二代会長の戸田城聖は教員時代にこれを教えようとして「犬の欲しい者はいるか?」と児童に呼びかけ、その後で黒板に「犬」という文字を書き「欲しい者は持っていきなさい」と語った。小学生に抽象概念を教えようとする試みが素晴らしい。

 私が見る赤とあなたが見る赤は色が異なっている。こうした事実も既に認知科学で明らかになっている。

 人それぞれに解釈があるわけだから、教義にまつわる解釈問題などケリがつくはずもない。皆が自分の正当化を欲しているだけのことだ。

 宮田の言わんとするところは理解できる。ただ、そのような改革を積み重ねたところで宗教的真実に近づくことはできないだろう。やはり反逆するのが最も近道だ(笑)。

 遠慮なくものをいうことは、一つの知的義務である。

【『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳(岩波新書、1951年)】

 私としては鎌倉時代の教えをそのまま信じることの方がはるかに問題だと思えてならない。日蓮の言葉にブッダの初期経典ほどの普遍性はない。文句がある奴は日蓮の思想を一言でいってみせろや。結局のところ、「何も考えずに御本尊を拝め」みたいな展開になってしまう。

 あらゆる宗教がキリスト教と同じ轍(てつ)を踏んでいる。そこに宗教の本質があるのだろう。

 完全性を求めるのは自分の不完全さを補うためである。少しばかり不完全であったとしても自分の余剰で補えばいいだけのことだ。

自由とは良心に基づいた理性/『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ

思想の自由の歴史 (岩波新書)