すべての欲望を捨て、願望なく、「私のもの」という思いなく、我執なく行動すれば、その人は寂静に達する。(七一)
アルジュナよ、これがブラフマン(梵)の境地である。それに達すれば迷うことはない。臨終の時において、この境地にあれば、ブラフマンにおける涅槃に達する。(七二)
【『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳(岩波文庫、1992年)】
・大乗仏教は仏法を啓典宗教化し、密教による様式化(儀式性)はヒンドゥー教への先祖返りであると私は考えている
その証拠を一つ示そう。
相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、煩悩即菩提生死即涅槃とは是なり、信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり(生死一大事血脈抄)
真蹟なき日蓮遺文は後世の創作である可能性が高い。そして一様に他の日蓮系教団との差別化をはかって崇拝様式を強調する。私はこれを「ヒンドゥー化」と名づける。上記文章の酷似からも窺えるだろう。日蓮マンダラに「梵」の字があることも偶然ではあるまい。
スピリチュアルな色彩を強め、具体的な行動(=修行法)へと駆り立てるのが特徴といえよう。つまりファンダメンタリズム(原理主義)傾向が強化されるのだ。その意味において大衆部とプロテスタントは異母兄弟みたいなものだ。
もちろんこうした背景に需要(=機根)があることは確かで、社会(コミュニティ)形成の変化に原因があると考えられる。教義の変遷は表面的な現象であって、その本質は内外(脳と社会)のネットワーク構造の変化にある。
・日蓮大聖人と最蓮房
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個人的には真蹟がない以上、最蓮房の存在を問うこと自体がナンセンスだと思う。ま、日蓮的【思想】の追求であれば別に構わないのだが。
『バガヴァッド・ギーター』を読むと、真のユダヤ教徒を目指したイエスとブッダの姿が重なる。両者には宗教を創始した自覚はなかったことだろう。
・マントラ、儀式、経典、偶像の中に宗教は存在しない
・快楽中枢を刺激する文体/『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳