・創価学会の師弟論 その二
創価学会の師弟論は日蓮が説いた「信」をそのまま会長-会員間に当てはめたものである。後に日蓮正宗より「池田大作本仏論」と指弾され、池田は会長辞任に追い込まれる(1979年)。
この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、稀有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。
【『人間革命』第3巻 「結実」/聖教新聞社、1967年】
この文章は以下のように書き換えられる。
この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的な実践でいうならば、希有の師と一体となっての「妙法への帰命」であることを、彼は知ったのである。
「革命は死なり」の件(くだり)である。
1978年6月30日付の聖教新聞に「教学上の基本問題について」が掲載される。
一、この若い革命家の「妙法への帰命」という理念は、具体的実践でいうならば、希有の師への帰命、すなわち「戸田城聖への帰命」でなければならぬことを、彼は知ったのである。(後略)(中略)妙法広布の大願に身命を削る戸田前会長と生死を共にしていくとの、生命の奥底からの深く厳しい決意にたった実践。これが山本伸一青年の「革命は死なり」という意味であった。
(福島源次郎講義「小説人間革命第3巻に学ぶ」聖教新聞49年11月8日付)
一、まさしく、現代における“人”への帰命とは師匠への帰命であり、池田会長への帰命となる。また、池田会長が大聖人の御書を寸分違わず、身に移し実践されていることから考えても、必然的にそうなるのである。
(村野宏論文「ひのくに」10号)
一、戸田先生のとらえ方が、“希有の師”なのです。“希有の師”という言葉が初めて出てきたのです。「希有の師への帰命」ということを、御義口伝をひっぱり出して読んだのです。いずれにしても、これはついていくというようなものではない。師弟不二だから、生命次元の問題だ、と。
(福島源次郎談「潮流」第9号)
【教学上の基本問題について:四、帰命・主師親三徳・大導師・久遠の師】
牧口・戸田が同様の師弟論を説いたことはない。まして仏教に師弟不二といった概念は存在しない。「戦略としては十不二門(じっぷにもん)に準拠するようなイメージ作りであったのだろう」(師弟不二と依法不依人について)。
日蓮自身もやはり密教の影響は免れ得ず「人本尊」という概念を示した。ブッダの教え(初期仏教)に仏への帰依はない。説かれたのは自帰依・法帰依のみである。
日蓮が説いた「信」はバクティ(信愛)であった(日蓮が説いた「信」)。そのヒンドゥー教的臭みが人々を隷属させる方向へいざなうことは必定であろう。
まして池田は悟達に至っていないことを明言しているのだ。
たまたま信濃町を歩いていたときに、池田から声をかけられ、そのまま若手本部職員対象の御書講義に参加させていただいたことがあった。そのときの教材が『諸法実相抄』であり、たまたま戸田城聖の獄中の悟達の虚空会の儀式の神秘体験の話題になったとき、池田ははっきりと自分にはそんな体験はないと明言した。
【『本尊問答抄』について(5):宮田幸一のホームページ】
既に創価学会の言論は仏法を巡るものではなく、師匠を中心に据えたものに変質している。会則では「三代会長を永遠の師匠」と謳い上げた。もはや「神」の領域にまで高められたいっても過言ではあるまい。ツイッター上では「永遠様」との揶揄(やゆ)が散見される。
個人的には宗教と科学は時間論を通して融合すると考えている。相対性理論が時間の絶対性を葬り、量子力学が時間の連続性すら否定する。時間は重力によって変化し、現在性において揺らぐ。物理学の世界では相対性から現在性へと明らかに視点が高まっている。
「永遠」というのは概念であって実際に存在するものではない(永遠に関する考察)。観測者がいなければ時間は流れないのだ。
バクティ(信愛)を知るには、やはり『ヴァガバッド・ギーター』を読むのが望ましい。