2018-07-17

所願満足

自解仏乗
「開目抄」を貫く日蓮の自我意識
・所願満足

 本願を立つ。(中略)我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。

 一つ気づくと次々と見えてくるものがある。上記テキストの「む」は、「②〔意志〕…(し)よう。…(する)つもりだ」か。「主語が一人称の場合は②の意に、二人称の場合は④の意に、三人称の場合には①の意になることが多い」(学研全訳古語辞典)。


 日蓮の本願はこの時点でかなっていない。願(がん)が成就するまでに時間を要することを示している。つまり煩悩即菩提となっていない。大願であろうと小願であろうと願いはすべて煩悩による。願と望は横並びで同じ意味を表す。「望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう」(『楽毅』宮城谷昌光)。

 ここでいう「呪い」とは思い・念慮のこと。日蓮が晩年に至ってこの本願をどう考えていたかを私は知らない。知る必要もないだろう。

「そもそも信心やマントラ口唱を重視したのは法然-親鸞であり」(業(カルマ)の本質)、即身成仏を説いたのも念仏宗であった。瞬間に無限を開いてゆくのが仏道の本義であると私は考える。未来志向や永遠という概念は仏法と相容れない。すなわち発迹顕本したはずの日蓮が「本願を立てて」いるのは明らかにおかしい。

 仏法は悟りの教えである。欲望実現とは無縁である。むしろ欲望を徹底して見つめ、見極め、解体し、離れることを教えているのだから。