2018-07-11

「開目抄」を貫く日蓮の自我意識

自解仏乗
・「開目抄」を貫く日蓮の自我意識
所願満足

 本願を立つ。日本国の位をゆずらむ、法華経をすてて観経等について後生をご(期)せよ。父母の頚を刎ん、念仏申さずわ。なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ、等とちかいし願、やぶるべからず。(「開目抄」文永9年〈1272年〉佐渡国塚原、真蹟曽存)

『開目抄』高橋俊隆
『開目抄』には日蓮本仏義など無い

 龍ノ口法難で発迹顕本した日蓮は「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ……さどの国より弟子どもに内々申す法門あり」(「三沢抄」日興写本あり)と宣言した。

「内々申す法門」とは何なのだろう? そういえば聞いたことがない。富士門流では「曼荼羅図顕」が語られているだけだ。「三大秘法の法門」とはいうものの化儀しか述べられていないような気がする。

 私の疑問をいくつか開陳しよう。10年ほど前に気づいたことだ。そもそも日蓮は受難によって自覚を変えたようだが悟りの跡が窺えない。すなわち外部要因である受難を内面の深化に結びつけるのは早計だと思う。曼荼羅を制作してから受持即観心(「観心本尊抄」)と言い出すわけだが受持することが勧心であるはずがない。受持即観心が事実であればそれは魔法だ。「どんな球でも打てるバット」みたいなものだろう。

「智者に我が義やぶられずば用いじとなり」は有名な一文であるが、日蓮は「我が義が破られる可能性」があることを示唆している。しかも重要なことは「我が義」であって「我が法」と書いていない点だ。

「風の前の塵」は『平家物語』からのパクりである。

 この短いテキストを読んでもわかるように日蓮の遺文は「我」だらけである。私がどうしても日蓮を好きになれない理由がここにある。