2016-06-14

自解仏乗

・自解仏乗
「開目抄」を貫く日蓮の自我意識
所願満足

 中村元〈なかむら・はじめ〉訳『ブッダのことば スッタニパータ』(岩波文庫、1984年/岩波ワイド文庫、1991年)の書評で「自解仏乗」(じげぶつじょう)という言葉を書いた。念のため調べたところ一般的な仏教用語ではないと判断し削除した。検索すると日蓮系のページしか見当たらない。ただしこのターム(用語)は独覚やアルハット(阿羅漢)を示唆するので正しいものであると思う。

 少年日蓮の虚空蔵菩薩への祈願について、弘安2年9月16日の「寂日房御書」(定P1669)には、

 日蓮となのる事自解仏乗(じげぶつじょう)とも云ひつべし。かやうに申せば利口げに聞こえたれども、道理のさすところさもやあらん。

 と記されているところから「日蓮が虚空蔵菩薩への祈願により悟達を得たのならば、日蓮は御本尊を顕わす必要はなく、虚空蔵菩薩への祈願を勧めればいいことになる。現実には、日蓮は御本尊を顕わし門下に授与しているのである。故に、日蓮は自解仏乗を虚空蔵菩薩に仮託されたにすぎない」との説があるが、どうであろうか。

4 虚空蔵菩薩より大智慧を賜った日蓮 - 日蓮ノート

 日蓮に関して調べると頻繁にヒットするサイトである。私も同じような疑問を抱いていた。虚空蔵菩薩と真言宗に関しても書きたいことがあるのだが稿を改める。日蓮の悟りに関する疑問は既に書いた。

佐前佐後と日蓮の悟りに関する疑問

 佐後を本物とすれば佐前は爾前経となり、日蓮と名乗ることは自解仏乗でなくなり、虚空蔵菩薩よりたまわった大智慧も色褪(あ)せる。もう少し具体的にいえば本尊を重んじれば題目が軽くなり、他宗批判の根拠があやふやになってしまう。日蓮は三類の強敵を呼び寄せたことを自賛するが、その原因は自身の激越なテロリスト的言動によるものだ。権力者に他宗僧侶の殺害を命じる人物が仏であるとは思い難い。ひょっとすると勧持品二十行の偈に固執して、意図的に扇動パフォーマンスを行った可能性すらある。

 尚、「寂日房御書」については「真蹟なし・偽書の争論なし」(正宗系観察日記)とのことである。

 偽書説濃厚(『総勘文抄』に関する疑問)といわれる「三世諸仏総勘文教相廃立(総勘文抄)」には「十法界の依報正報は法身の仏一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す名字即の位より即身成仏す」(創価学会版、566ページ)とある。日寛が「当流行事抄」に引用している箇所だ。たぶん信を立てることで名字即でも成仏できるという論法だと思うが、そもそも名字即の説明として適切であるとは思えない(六即)。また創価学会員の体験談でこの自覚を述べた人を私は知らない。

 話を戻そう。16歳の日蓮は南無妙法蓮華経を発明していないし、日蓮を名乗った時点ではまだ本尊を顕していない。本尊を一大秘法と重んじて、それ以前の教えを爾前経とすれば、日蓮の論理でいけば成仏できた人は一人もいないはずである。それどころか日蓮自身の仏性(ほとけせい)すら疑われる。

 ついでに述べておくと、日蓮遺文の偽書の特徴として天台本覚論が指摘されるが、私は本覚論そのものが誤っているとは考えていない。悟るのは一瞬である。修行をすれば悟れるというのは錯覚だ。常にブッダの傍(そば)にいて多聞第一と謳(うた)われたアーナンダ(阿難)が悟りを開いたのはブッダ死後のことである。

 日蓮思想を検討するためには、阿含(テーラワーダ)批判、法相宗(唯識)批判、龍樹(中観)批判など、批判内容を吟味するのが手っ取り早いと思う。

 経典の古層に位置する『スッタニパータ』の中でも最古層とされる第4章では、繰り返し「論争するな」とブッダは教えている。日蓮が知ったら吃驚(びっくり)仰天したことだろう。

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)