野心的な人間は平和な人間ではない。平和や同胞愛を口にするかもしれないが、政治家は決して世界に平和をもたらすことはできない。また組織化された信念に属している者たちにもそれはできない。なぜならかれらはいずれも、指導者たち、救い主、教導者および規範の世界に条件づけられてきたからだ。そしてあなたが他人に従うとき、あなたはそれによって自分自身の野心の達成を追求しておられるのだ。それがこの現実の世界でで(ママ)あれ、あるいは観念化の世界、いわゆる霊的な世界においてであれ。競争心、野心には、葛藤が含蓄されているのではないだろうか?
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 2』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】
つい先ほど読んだページにこう書かれていた。『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー』(全4冊)はクリシュナムルティにとって唯一の著作といってよい。刊行されている書籍の殆どは講話を編んだもので、他には手紙と日記の類いがある。原題は「生のコメンタリー」。作家のオルダス・ハクスリーから執筆を勧められ、第二次世界大戦の最中から書き始めたと思われる。クリシュナムルティのもとを訪れた様々な人物とのやり取りが描かれている。
何不自由のないエリートの若者が数日前にクリシュナムルティの講話を聴き、深刻な悩みにとらわれる。「野心と競争心は取り払わねばならない」との一言が彼の魂を撃ち抜いた。
第三代会長というポストに対する池田の野心(池石戦争:池田会長就任と石田派・牧口派の反発)を思えば、創価学会が「野心と競争心」まみれになることは避けようがなかった。後年、創価学会は阿部日顕の法主就任に対して疑難を主張したが、同じ穴の狢(むじな)としか言いようがない。
人は自己実現のためにありとあらゆるものを利用する。教団においては指導者と組織への忠誠心が競われる。その忠誠心も一枚皮をはいでみれば野心であることが多い。競争に参加する者は必ず評価を求める。犠牲にするものが多ければ多いほど達成の度合いが強まる。学会幹部の家庭では当たり前のように子供が犠牲となる。ま、生け贄(にえ)のようなものか(笑)。
卑小な自我が大いなる人物を求める。いかなる努力や犠牲も心の奥底にある葛藤を根絶することはできない。滝川さんの場合はご子息の除名をきっかけにそれが表面化したのだ。組織化された信念に属している者たちは救われることがない。
・同一化