あなたはなぜ自分自身を、誰か他人や、あるいは集団、国と一体化させるのか? なぜあなたは、自分自身のことをクリスチャン、ヒンドゥー、仏教徒などと呼ぶのか? あるいはまた、なぜ無数にある党派の一つに所属するのか? 人は、伝統や習慣、衝動や偏見、模倣や怠惰を通じて、宗教的、政治的にあれこれの集団と自分自身とを一体化させる。この一体化は、一切の創造的理解を終焉させ、そうなれば人は、政党の首領や司祭、あるいは支持する指導者の意のままになる、単なる道具にすぎなくなってしまうのだ。
【『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー クリシュナムルティの手帖より 1』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1984年/新装版、2005年)】
師弟の一体化・同一化はバラモン教(古代ヒンドゥー教)以来の伝統である。神との同一化を説く宗教も多い。ナショナリズム・愛社精神・熱狂的なファンも同じ心理である。大企業の社員・エリート大学出身者・由緒正しい家柄など、自分以外の何かと同一化する人々は珍しくない。
不思議なことだが人間には他人を支配したい欲望と共に、他人から支配されたい願望がある。「よき上司を望む」のがその証拠だ。スポーツの名門校などは支配の権化といってよい。どこかにマゾ的感覚がなければ厳しい訓練を耐え抜くことはできない。
技術を習得する場合はもちろん指導者が必要だ。クルマの運転だって一人ではどうにもならない。だが生きる姿勢において他人や組織との同一化があれば、凡庸な自己は死ぬまで変わらない。
同一化の底には安定への願望がある。自分を何かと同一化させることよりも自分自身を理解することが正しい。煩悩の火を吹き消すことが涅槃である。同一化は煩悩の火を盛んにしてしまう。
これは滝川さんに対するメッセージである。はっきり言っておくが息子(元創価学会職員3名のブログ)の方はどうでもいい。私が心配するのはご母堂である。長年に渡り真面目に活動をしてきた人が苦しむのを黙って見過ごすわけにはいかない。
まず問題を明らかにしよう。
1.学会本部は正しく、息子が間違っている。
2.学会本部は間違っており、息子が正しい。
3.学会本部も息子も間違っている。
事実はこのどれかである。被害者意識を払拭しなければ事実は見えてこない。しかも子息は既に創価学会本部を解雇されたばかりではなく、除名処分まで受けている。
1の場合はあり得るが滝川さんがそれを受け入れることはないと判断して除外する。心情的には2のケースだと思われる。学会本部が間違っているのであれば学会をやめるべきだ。謗法の団体にいても功徳を受けることはないからだ。しかしそれでも尚、池田を師匠と仰ぐのであれば、創価学会をやめた上で池田の著作を読んで、信行に励めば十分だろう。ただし行き詰まるのは目に見えているが。どしどし折伏をして池田門下の輪を広げてゆけばいいのだ。これが小林節のいう「池田教」の正しいあり方だ。創価学会員からも賛嘆されるような人の輪を築くことは可能だろう。
そして同一化は果てしない運動に駆られる。運動は一定の満足感を与えるが自分自身を見失わせる。変わらぬ自分が同じ反応を繰り返してゆくだろう。これを輪廻(りんね)と名づける。
・一切の服従は邪悪である