2016-06-02

フジ子・ヘミングという物語



 同じように御本仏という物語があり、慈悲という物語がある。「日蓮は・なかねども・なみだひまなし」(「諸法実相抄」真蹟なし/PDF「『諸法実相抄』の来歴」)。日蓮は激情の人であったとしばしば指摘されるのも故なきことではない。ある時は「邪宗の僧侶を殺せ!」と叫び、またある時は信徒と苦楽を分かち合った。我々は情操を肯定的に捉えるが、情動という次元で見ると趣が変わる。修行とは修練ではない。行を修める目的は心を修めることにあり、欲望をひたと見据え、自制することが修行の第一歩である。それを踏まえると振幅の激しい感情を持つ人は悟りから遠い位置にいることがわかる。

 学術部の諸兄が創価学会を正当化すべく、長年にわたる教義解釈の修正を試みているようだ。しかしそれは必ず失敗することだろう。後で出されたジャンケンに説得力はない。そのような行為自体がイデオロギーに基づくもので、左翼が平和や人権を利用する姿とよく似ている。

 後期仏教(大乗)はジャータカ(前生譚〈ぜんしょうたん〉)をテコにして広まった。大衆はわかりやすい物語を好む。ジャータカの一部はマハーバーラタからのパクリだろう。

 ブッダは物語の欺瞞を暴いた。一切の条件づけから人間を解放しようとした。その弟子たちが「新しい物語」を作るのは愚の骨頂である。