国会でも言論出版妨害事件が大きく取り上げられ、政教一致問題がクローズアップされた。あげく池田大作会長を国会に証人喚問するという動議が公明党以外の全政党から出る。公明党議員は必死になって池田喚問阻止のため連日昼夜、他党議員に接触し陳情した。(中略)
失礼ながら渦中の池田氏は、そのころ国会喚問に脅え恐怖におののいていたように見えた。「私を守れ」と連日のように私にも指導があり、学会や党幹部に「証人喚問には絶対に応じない。絶対に阻止せよ」といわれるのを聞き、ある幹部議員は、「これだけ公明党は死に物狂いで国会で頑張っているのに、先生は臆病。卑怯だ」と呟きもした。池田先生の狼狽(ろうばい)振りを目の前にしていただけに、私にとっても痛烈な幻滅だった。
【『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)】
昭和41~42年頃の幹部用小冊子『前進』に「矢野は趙雲だ」との池田評がある。それを読んだ時、私は初めて矢野に注目した。何を隠そう『三国志』の中では趙雲子龍〈ちょううんしりゅう〉が一番好きなのだ。
私は青年部時代において会合などで矢野批判をしたことは殆どない。実感として自分と矢野の間に関係があるとは思えなかったからだ。が、しかし、紙上座談会などを引用する中で勢いに任せて口にしたことがあるかもしれない。そこでまず初めに矢野絢也氏に対し、心より謝罪申し上げます。併せて貴著を紹介することで創価学会が行った悪質なキャンペーンの実態を広く知らしめたいと思っております。
1990年代以降「私には恐れるものがない」というのが池田の口癖の一つであった。実際は違ったようだ。国会で池田証人喚問が叫ばれるたびに、田中角栄や笹川良一などの要人に泣きついている。
会長就任から10年を経て築いてきた功績が「私を守れ」と言わせたのか。当時まだ42歳の男盛りである。心に痛みを覚えた。まだ活動していた私は「先生がそんなことを口にするのか?」と身悶(もだ)えた。創価大学出身のあるメンバーに話したところ、「そんなことは昔からしょっちゅう言ってますよ」と事もなげに語った。
本書を読んでも私は紙上座談会での学会の言い分を信じていた。矢野本2冊目で「あれ?」と思った。3冊目で完全に学会の過ちを悟った。
それ以前にも例えば渡辺武達〈わたなべ・たけさと〉は『聖教新聞の読み方 創価学会・機関紙のエネルギー源を探る』(三五館、2000年)で紙上座談会の人権蹂躙に苦言を呈していた。聖教新聞に何度も登場した渡辺はそれ以降完全に無視される。
「悪を叩くのは善」を合言葉にしながら学会員は暴走し、やがて池田は「水に落ちた犬は叩け」とまで言うようになった。もともとは魯迅の言葉であるが、これを標榜したのは毛沢東であった。世界史虐殺者ランキングで1位の人物だ。失政も含めるとその数は6000万人とも7800万人ともいわれる。