業(カルマ)に関する覚え書き。ま、身口意にわたる三業の集積を「業」(ごう)と呼ぶのが普通である。
Wikipediaを参照するとサンスクリット語は「karma」(カルマ)となっている。勉強不足で申しわけないが、カルマとサンカーラ(サンスカーラ)の関係がよくわからない。
・ややこしい「サンカーラ」の話 ( 哲学 ) - アジアのお坊さん 番外編
・日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥
余談になるが「行躰即信心」は完全な邪見で、行為と信心に関連性はあってもイコールではない。そもそも信心やマントラ口唱を重視したのは法然-親鸞であり、日蓮はそれを敢えて踏襲することで蔓延する念仏宗に打撃を与えようと試みたのだろう。
話を元に戻そう。業(カルマ)の本質は「好きなことを繰り返す」ところにあると私は考える。例えば音楽、本、映画、ドラマなどがわかりやすい。かつてイアン・デューリーは「セックス&ドラッグス&ロックンロール」と歌った(1977年)。加えてアルコール、ギャンブルなど。我々は耽溺(たんでき)し、のめり込む。きっと脳の報酬系が発火しているのだろう。生物は快楽という刺激に逆らえないのだ。
事あるごとに「うまい棒」のでかい袋を買う婦人部や、スカトロビデオでなければ昂奮することができない男子部を私は知っている。
好きなことを繰り返すのと同様に、我々は嫌いなことを避けるのも繰り返す。そしてその中間に無意識のまま繰り返す日常の営みがある。安易というぬるま湯の中で知らず知らず流されてゆく方向性がある。このようにして人は一回性を失ってゆくのだ。
もっと端的に言おう。「今日より明日へ」という思考の枠組みが既にカルマの罠に捕われているのである。人生は今日しかない。今日の延長線上に明日を思うのがそもそも過ちなのだ。
誰かが亡くなった時に湧いてくるのは「伝えるべきことを伝えてなかったのではないか」という悔恨の情だ。次の機会があると思い込んでいるから向かい合う姿勢に真剣さが乏しくなる。
「繰り返したい」との切望が業の本質である。だからこそ我々は明日を思い描き、来世に期待するのだろう。